手嶋龍一

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コロナとの戦いに打ち勝つのは自由か、強権か

 ナイヤガラの瀑布を思わせるような暴落だった。

 週明けの月曜日、ニューヨークの株式市場は、香港、東京市場の急落を受けて、売り注文が殺到し、主要銘柄すら値がつかない。ついにダウ平均株価は前の週に比べて22%余りも下落していった。ワシントン特派員だった筆者は、株価が点滅するボード前に呆然と立ち尽くす人々の表情をいまも忘れない。1987年10月のブラックマンデーはこうして始まった。

 ニューヨークの株式市場が機能不全に陥るなか、シカゴのマーカンタイル取引所はひとり商い続けた。

 「市場を閉めることなど露ほども考えなかった」
 いまや米国を代表する金融先物S&P500を初めて上場したマーカンタイル取引所の理事長だったレオ・メラネド氏は後にこう述懐している。

 そのわけを尋ねられたメラネド氏は「スギハラ・サバイバーだったからだ」と即座に答えたのだった。

 メラメド一家は、ナチス・ドイツ軍が祖国ポーランドに侵攻するや、隣国リトアニアに逃れたユダヤ難民だった。暫定首都カウナスにあった日本領事館に日参して、領事代理だった杉原千畝から通過査証を発給してもらった。

 レオ少年はその時8歳、両親と共にモスクワからシベリア鉄道でウラジオストクに辿り着き、日本海を渡って敦賀港に上陸した。そして真珠湾攻撃の直前に横浜港からアメリカに逃れた。本国政府の訓令に抗って杉原千畝が発給した査証はまさしく「命のビザ」となった。ヒトラーのナチス・ドイツとスターリンのソ連という二つの全体主義から辛くも逃れたユダヤ人の少年にとって、自由な市場は命にも等しい存在だった。

 レオ少年がかつて仰ぎ見た自由の国アメリカはいま、新型コロナウイルスの脅威に怯えているかに映る。世界経済の心臓部ニューヨークは、ブラックマンデーやリーマンショックに続いて、手痛い打撃を被っている。この感染症に罹った人は全米で30万人を超え、死者も9千人を超えてしまった。ニューヨークのビジネスマンも自宅待機を命じられ、マンハッタンの医療現場は崩壊の淵にある。

 超大国アメリカの動揺を尻目に、習近平の中国は、コロナウイルスとの戦いを克服しつつあると自信を覗かせる。ヨーロッパに医療チームを派遣し、果敢に都市を封鎖した成果をアピールして「大外宣」を繰り広げている。非常時には国家が強権を発動し災厄に立ち向かう中国流が効果的だとする論調が欧米のメディアにも見受けられる。

 非常時にあっても、自由な社会システムを維持して立ち向かうか、それとも国家が強権的な力を行使した方がいいのか――。21世紀に生きる我々はいま、重い問いを突きつけられている。

 国家の命令で都市を封鎖して人々の移動を禁じ、AIを通じて人々を監視する。短期的にはこうした中国方式が有効なのかも知れない。中国やヨーロッパで新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた時も、トランプ政権はロックダウンなどの対策をとろうとしなかった。そのため被害が拡がったことで、強権的な政策を支持する見方を助長している。

 「トランプのアメリカ」は、未知のウイルスとの戦いに自信を失っている。ハーバード大学のウォルター・R・ミード教授はそう言い、「他の国々を助けるただひとつの方策はアメリカ・ファーストだ」だ述べている。米国の国益を剥き出しで追求する「トランプ・スローガン」を逆手にとって、アメリカはいまこそコロナウイルスとの戦いを制してみせよと説く。そのことが国際社会への最善の貢献だと指摘する。

 ブラックマンデーも、続くリーマンショックも、アメリカ政府は大胆な財政出動や金融機関の一時国有化で凌いできた。当時に比べて、いまのトランプ政権は、国の内外から十分な信認を得ていない。さらに原油価格の暴落が重なるなど、より多くの困難を抱えている。にもかかわらず、アメリカは現下のコロナ戦争を率先して戦い抜く力量を備えているはずだ。自由な国家システムと自らを律する国民が、未曽有の災厄に打ち勝ってみせる。それこそが、ポスト・コロナ世界の潮流に大きな影響を与えることになるだろう。「レオ少年が見たアメリカ」こそが現下の危機を乗り切ることに、筆者は賭けたいと思う。

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