トランプ大統領と引き換えに米国民が手にした「危険な劇薬」
8年前の開票日、アメリカは久々に前途に光明を見出して、バラク・フセイン・オバマ大統領の誕生を心から喜んでいるように見えた。ニューヨークの摩天楼を走るタクシーが一斉に「WE CAN CHANGE」とクランクションを鳴らし、感動を分かち合っていた光景が蘇る。「アメリカの唄」がこの国の隅々に響き渡ったと誰もが実感したのだった。だが、この国を包んだ高揚感は瞬く間に消えていった。マイノリティ出身の若き大統領ならアメリカの現状を変えてくれる―それは幻想に過ぎなかったことが分かると、人々を深い絶望に突き落とした。今回の大統領選挙は、スキャンダルを暴きたてる共和、民主両陣営の応酬は派手だったが、驚くほど躍動感に乏しい戦いだった。それは8年前の夢から覚めた反動そのものだったのである。
ヒラリー・ローダム・クリントンという政治家は、じつに選挙戦に弱い候補だ―。過去8回のアメリカ大統領選挙を現地で取材し、2000年と2004年の大統領選挙で「当選確実」の判定に携わった経験に照らしてそう思う。FBI(連邦捜査局)がクリントン国務長官時代のメール捜査を終えていないと選挙戦の終盤に公表した。これによって共和党のトランプ候補の猛追を許してしまったとアメリカのメディアは解説している。だが、そうなのではない。選挙戦ではあらゆる情報が乱れ飛ぶ。これしきの疑惑で、すでに勝利を固めたと見られていたブルー・ステート(民主党獲得州)が次々に激戦州に逆戻りしていくことなどありえない。そもそもクリントン陣営の支持基盤があまりに脆弱だったのである。
最終盤では、オハイオ、フロリダ、ノースカロライナ、ペンシルベニアが主戦場となり、これまでクリントン陣営が獲ると見られてきたニューイングランドのニューハンプシャー州やメーン州までブルーから灰色の激戦州に逆戻りしてしまった。そしていざ票が開いてみるとそれらの大半がトランプ陣営の手に落ちたのだった。メール問題の再燃がきっかけで支持基盤がはらはらと崩れていく。それほどにヒラリー・クリントン氏は選挙の大一番に弱い政治家だった。
それゆえ、クリントン前国務長官が大統領選挙に名乗りを挙げて以降、ひたすら苦しい戦いを強いられてきた。民主党内の候補者選びでは、バーニー・サンダース上院議員に終始追い詰められ、続く本選挙でも共和党のドナルド・トランプ候補に最終盤で抜き去られてしまった。一年余りに及んだ大統領選挙戦を通じて、21世紀のアメリカ社会の底流にどれほど不満のマグマが渦巻いているか。敗れたクリントン氏は、草の根に鬱積する不満の凄まじい勢いを肌で感じ取ったことだろう。
いまのワシントンの政治家たちは自分たちの願いを掬い取ってくれない。草の根の有権者は既成の政治家の象徴としてクリントン候補に厳しい判定を下したのだった。十分な学資がなく、州立大学にも進めない若者たちは、民主党内の候補者選びで党内最左派のサンダース上院議員のもとに結集した。クリントン候補は若者向けの施策をあれこれアピールしてみたが、最後まで手ごたえは得られなかった。
クリントンは「ガラスの天井」を打ち破ろうと、初めての女性大統領の誕生を訴えた。筆者はアメリカでも女性が社会に進出するためになお多くの課題を抱えていることを承知している。そのうえで言うのだが、女性大統領の出現を至高の訴えとして選挙戦を戦う時代の認識がすでに過去のものだったと思う。長くアメリカ政界の中枢を歩んできた本命候補ヒラリー・クリントンという政治家が知らず知らず「賞味期限切れ」を迎えていたのかもしれない。
「メキシコ国境の向こう側には、中国が新鋭の工場を次々に建て、中国製品が無税でアメリカ国内に流れ込んでいる。これによって勤勉な白人労働者は職を奪われつつある」
トランプ候補はこう述べて、アメリカがメキシコと結んだNAFTA・自由貿易協定によって、優良企業が次々にアメリカから逃げ出し、失業者を大量に生み出していると人々の怒りを煽り立てた。
不動産王トランプ氏を共和党の大統領候補に押し上げたのは、プアー・ホワイトと呼ばれる所得の低い白人の労働者層だった。彼らの多くは高校からそのまま社会に出た人々だ。こうした人々はトランプ氏に現状を変える期待を託そうとした。そしてメディアの予想を覆して第45代大統領の座に押し上げたのだった。
大統領選挙の主戦場、製造業が多いオハイオ州やかつて自動車の州と言われたミシガン州などでは、白人の労働者層がトランプ候補をこぞって支持した。かつての民主党の支持基盤はあっという間に切り崩されてしまった。来年一月下旬にホワイトハウスに入るトランプ次期大統領には、アメリカにいまこそ健全な中間所得層を創り出す政策を望みたい。富裕層への減税だけではアメリカ経済の再生はない。中間所得層の支持を得られなければ一期だけの政権に終わってしまうだろう。次の選挙での勝利は見えてこないはずだ。堅実な経済政策は、ひとりアメリカのためだけでなく、国際社会の安定に不可欠なのである。
トランプ候補は、女性スキャンダルのゆえに超大国の威信を傷つけたのではない。アメリカはなによりもアメリカの国益のために―。そう訴える「アメリカ・ファースト」主義のゆえに、世界を主導してきたアメリカに対する信頼を根底から揺るがしてしまったのである。自国の国益を剥き出しに追い求める主張は、この国に伏流している孤立主義を顕在化させ、不健全なナショナリズムを刺激してしまう。それは危険な劇薬なのである。
トランプ候補は、この選挙戦を通じて、日本が自国の安全保障に十分な金を出そうとせず、同盟国のアメリカにあまりに多くを依存してきたと言い放った。
戦後のアメリカには、民主、共和いずれの政権かを問わず、決して変えようとしなかった外交・安全保障政策の本音があった。それは、東アジアでは日本に、欧州にあってはドイツに核のボタンを決して渡さないというものだった。決断すれば直ちに自前の核を保有できる日独両国に核兵器を持たせてしまえば、アメリカは超大国の地位を放棄せざるを得なくなるからだ。
しかし、トランプ候補は、堂々と日本やサウジアラビアの核武装を容認する姿勢を示した。それはイスラエルの核を公然化させ、イスラムの核を中東全域に広げることになる。やがてはIS・イスラム国にも核兵器がわたる危険を招いてしまう。
オバマ大統領を現職として初めて被爆地広島に赴かせたのも、こうしたトランプ発言が背景にあったと言っていい。しかも、アメリカ国内に戦前の「アメリカ・ファースト」主義を蘇らせ、日本やドイツ、さらにはサウジアラビアの核武装を公然と容認して、これらの国々に燻っていた核保有の議論を勢いづかせてしまった。
「日本はアメリカが攻撃されても何もしない。そうならば日米安保条約を再交渉すべきだ」
トランプ候補はこう述べて、日米安保条約を俎上に挙げて、廃棄に含みを持たせる発言もしている。
これらのトランプ発言の本質は、アメリカが西側同盟の盟主であることをやめ、超大国たることをやめてしまうと宣言している点にある。新興の軍事大国中国は海洋大国の旗を掲げて、南シナ海に、東シナ海に進出を試みている。クリミア半島の併合を機に米ロが厳しく対立するなか、その間隙を縫って中国は、南シナ海に7つの人工島を建設し、九段線の内側をわが領域と主張している。そして七つの人工島を造成し、3千メートル級の滑走路を造って軍事基地化を進めている。こうしたなかで、日米同盟の弱体化させてしまえば、21世紀という時代にとめどない混乱をもたらしてしまうだろう。
トランプ次期大統領は「アメリカを再び偉大にする」をキャッチフレーズに掲げ、選挙戦を戦った。だがアメリカがなお偉大であるためには、世界で尊敬されるリーダーでなければならない。戦後のアメリカは、一時の自国の利益よりも国際社会のために行動してきた。それゆえ、アメリカを再び偉大にしたいと考えるなら、国際社会、とりわけ自由の価値観を分かち合う国々との連携が何より大切だろう。日米同盟こそ新政権が確かな船出をするための試金石となるだろう。
日米同盟は軍事的な結びつきだけではなく、理念の同盟である。トランプ次期大統領は東アジアの要石、ニッポンと絆を強め、日本もまたトランプ次期政権に同盟のあるべき姿を率先して示す時である。日本は大胆に行動を起こす時だろう。
新しいアメリカの政権は、親日か、反日か。そんな心配をする受け身の姿勢こそが、日米関係を損なう元凶だといっていい。中国が海洋進出を図る東アジアの海を波静かなものにするため、日本はいまこそ主導的な立場をとるべきである。トランプ次期政権の出現を自由という至高の価値を日米で分かち合う太平洋同盟をさらに揺るぎないものにする好機としてほしい。