甦れ、『時事新報』の精神
甦れ、『時事新報』の精神
「われわれが日々書いている社説は、床の間に掛ける軸みたいなものだからなあ―」
日本を代表する新聞の論説委員長が自嘲気味にこう呟いた。和風の部屋に床の間をしつらえたからには、たとえ客が眼をとめなくても何かを飾らなければならない。新聞の社説はいまや、誰にも見向きされない掛け軸のような存在だというのである。論説仲間では時折引き合いに出される譬えなのだろう。新聞社内ですら社説の読者は数えるばかりらしい。わが身を顧みても、「国民的議論を尽くすべき」といった、型にはまった社説など、読む気が起らない。日本の活字メディアを担ってきた巨大新聞の言論が凋落しつつあるさまを論説委員長氏の言葉ははしなくも示している。
墨蹟の寓意
草創期の『時事新報』には、幾多の卓説を世に問うた気鋭の一群が慶應義塾にいた。そのひとり、高橋義雄が、論説委員長氏の台詞を耳にしたらさぞかし嘆いたことだろう。新聞の顔ともいうべき論説欄は断じて床の間の飾りなどではない―と。そもそも、論説記事を床の間の掛軸になぞらえる姿勢がいけない。平成ニッポンの文化的衰退を自ら認めるようなものだと箒庵の雅号をもつその人は眉をひそめるにちがいない。
高橋義雄こそ明治から大正期を代表する数寄者であり、床の掛物を亭主の心入れを客に伝える大切なものとして扱ってきた。かつて太閤怒りに触れて都を追われる古渓和尚を聚楽第に近い屋敷に招いてひそかな茶会が催された。席主は利休だった。床には生島虚堂の墨跡が掛かっている。「傑出した禅僧が知る人とてない地にいま赴こうとしている。すみやかに帰られよ、そしてまた共に語り合おうではないか」。古渓が一日も早く都に戻ってくることを願う気持ちをこの掛物に滲ませ、都を落ちていく古渓への餞としたのである。だが秀吉に知られれば厳しい処断は免れない。後年、秀吉に抗って切腹を命じられる利休の運命がこの掛軸にも暗示されてはいる。
論説記者の育成
この国に文明開化をもたらすために、福沢諭吉が果たした役割はあらゆる分野に及んでいる。人々に新しい思想を提供し、国民の合意を練りあげていく活字メディアもその一つだった。早くも明治二年には慶應義塾出版局を立ち上げている。福沢諭吉は、明治十四年の政変を機に、政府から独立した言論機関の必要を痛感し、慶應義塾の出版部門を礎に『時事新報』を創刊する。いたずらに藩閥政府を批判攻撃するばかりの野党流の新聞ではなく、不偏不党を掲げる言論機関を目指したのである。福沢自らが筆を採り、時代を先導する言説を『時事新報』に次々と発表していった。だが福沢諭吉はここでも言論人に留まらなかった。同時に優れた教育者であった。『時事新報』という活字メディアを担う次世代のジャーナリストを育てていった。
若き日の高橋青年こそ、福沢が手塩にかけた逸材だった。文章が達者な若者がいる。水戸で中学の校長を務める友人の奨めで、貧窮のなかで丁稚奉公をした後、中学生となった高橋青年を慶應義塾に迎え入れた。やがて『時事新報』を舞台に健筆を揮わせるため、明治の青年たちにとっては仰ぎ見るような知の巨人が自ら文章の手ほどきを授けたのだった。
革新的なジャーナリズム論
「意見だの感想だのを書く文章は、簡単である。ものの姿をありのままに描写するような文章を勉強せよ」
日本の茶道史の泰斗、熊倉功夫は、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)のなかで、塾生の高橋義雄を指導した福沢諭吉の言葉を紹介している。当時としては、いや今日でもなお革新的なジャーナリズム論といっていい。自分はこう考える、この時こんな印象を持った、と記すことはさして難しくない。だが、眼前の事象を正確に、的確にスケッチすることは至難の技である。人力車を見たこともない読者に、眼前を通り過ぎるように人力車の機能を描写するような文章を書きなさいと教えている。時局演説会で獅子吼する弁士のような文章ではなく、斥候兵が書く簡潔な報告文のような文章をこそ、ジャーナリストは身に着けるべきだと説いている。近代的なジャーナリズムとは、精緻な取材を積み重ねた末に、現実をありのままに写し取ることが基本でなければならないという。
それにしても、福沢諭吉からじかに指導を受けて、二十歳そこそこで『時事新報』の論説記事を書く明治の青年たちについて、熊倉功夫はこう書き記している。
「今でいえば大学生か、大学でたての若者が、一流の新聞紙に論説を書ける時代が、明治十年代には日本に存在したのである。それが明治の青年たちの幸せであったし、それをめざして青年は東京へと向かったのであった」
こうして『時事新報』の論説は活気溢れるものになっていった。高橋青年の書いた鋭利な論説記事は、時に藩閥政府の逆鱗に触れて、一週間もの発行停止を食らっている。だが福沢諭吉は、若き愛弟子の論説に感心すると、その夜、自宅の晩餐に招いて大いに励ましている。これでは若者が発奮しないわけがない。
茶会文学の誕生
高橋義雄はやがてアメリカに留学し、帰途にはイギリスにも立ち寄って、帰国後は実業界に転じていった。三越百貨店や王子製紙の経営に携わり、実業家としての地歩を固めていく。その傍らで茶の湯を通じて、この国の美術品の美しさに魅せられ、類稀な数寄者となっていった。論説記事を書くジャーナリズムの世界からは離れたが、かつて席を置いた『時事新報』に様々な茶会記を連載するようになる。欧米の新聞とは一味違った、洗練された社交の記事欄を確立していった。それまでの茶会記は、道具の名前を連ねただけのものだったが、高橋箒庵が書く茶会記には、茶席で交わされた茶人同士の会話が生き生きと再現されていた。読む者はあたかも茶席に居合わせているような錯覚を覚える臨場感に溢れた書きぶりだった。熊倉功夫はこれを「茶会記文学の誕生」と呼んでいる。そんな高橋箒庵の集大成ともいうべき大著が『大正名器鑑』である。そこには茶にかかわる名品の図録が一堂に収められていて壮観だ。
幼少のころ、没落した士族の子弟として、凄まじいばかりの貧困を味わった高橋箒庵は、慶應義塾で偉大な師の薫陶を受けてジャーナリストとなり、外国生活も経験して実業家としても成功した。そんな人物が、日本の伝統美の発見者となり、膨大な著作を遺す。この時代を駆け抜けた実業家の精神世界の広大さを窺わせて、私たちまで誇らしくなる。
慶應義塾の新たな責務
いまメディアの世界を見渡すと、慶應義塾は新聞ばかりか、放送界や出版界にも、インターネット・メディアにも、実に多様な人材を送り出している。世論の動向に影響力を与えるテレビ局のアンカーも、慶應義塾から巣立った人材が綺羅星のように並んでいる。だが、メディア研究所を除けば、学び舎にジャーナリストの養成コースが設けられているわけではない。アメリカの大学や大学院にジャーナリズム関連の課程が多いのとは対照的だ。日本やイギリスのメディアが職業的訓練を受けた学生を採用することを必ずしも喜ばず、学生に幅広い教養を求めることも、メディア専攻科が少ない理由なのだろう。
だが、現役のジャーナリストがしばし一線を離れて、知的な補給をするシステムが要る。こうした制度が確立していないため、日本のメディアを底の浅いものにしている。私の場合は幸運にもキャリアの折り返し点で、水を入れる機会に恵まれた。東西冷戦が幕を下ろして間もなくの頃だった。次期支援戦闘機の研究・開発をめぐる日米同盟の暗闘を描いたノンフィクション『ニッポンFSXを撃てー黄昏ゆく日米同盟―』が認められて、ハーバード大学のCFIA・国際問題研究センターにシニア・フェローとして招聘された。世界各国から招かれた十数人の仲間たちと冷戦後の世界について日々討論し、スタレンー・ホフマン教授らの指導を受けた。あの二年間の知的蓄積と人脈が、なければ、いまこうしてメディアの世界で仕事を続けていられなかったと思う。アメリカの大学の懐の深さ、その学恩を思わざるをえない
圧政の記者たちのために
同じ時期にニーマン・フェローとしてハーバード大学に招かれた各国のジャーナリストがいた。軍政下のエジプトからやってきた女性の記者もそんな一人だった。アメリカ政府は、エジプトの軍事政権がメディアに検閲を敷いていることを知りながら、かの地の強権政治を黙認していた。一方でアメリカの大学は、圧政に抗うジャーナリストを招いて惜しみない援助の手を差し述べていた。
福沢諭吉という偉大な思想家が、二十一世紀のいま、この学塾を率いていれば、アジアや中東の各地で、検閲や圧政と戦いながら報道の現場に身を置くジャーナリストたちに学びと支援の場を与えていただろう。日本という国には、そして自主独立の理念を掲げる慶應義塾には、新たな歴史の扉を押し開く実力を存分に備えている。民主主義の光が差さない地域に暮らす人々を圧政のくびきから解き放つ。道義の力こそその最後の拠り所となる。堅い岩盤を打ち破る尖兵となる若者を世に送り出す学塾であってほしいと思う。そのためにこそ、『時事新報』の精神よ、甦れ。