手嶋龍一

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戦後70年インテリジェンスなき国家がたどった運命

 70年目を迎えた8月6日の広島で筆を執っている。あの日の午前8時15分、原子の熱線を浴びた人々は渇きを癒したいと川に飛び込んでいった。爆心地を縫うように流れる元安川の川面は焼けただれた被爆者たちで埋め尽くされたという。

 原爆ドームをはじめ86の原爆遺構が、この国を見舞った惨劇をいまに伝えている。被爆者たちの平均年齢は今年初めて80歳を超え、あの日々の記憶をどのように次の世代に語り継いでいくか、被爆地では模索が続いている。

 アメリカのエノラ・ゲイ号から投下された原子爆弾リトルボーイは、日本の指導部にポツダム宣言を受諾させる重要なきっかけとなった。広島と長崎への原子爆弾の投下、それに続いてソ連邦の対日参戦を受けて、日本は無条件降伏を呑んだのだった。これによって、おびただしい犠牲をだした第二次世界大戦はようやく幕を閉じたのだった。

 それでは第二次世界大戦の事実上の起点はどこに求めればよいのか。1938年9月のミュンヘン会談だろう。英・仏・独・伊の4か国首脳による会談こそ、来るべき世界大戦の序曲を奏でて、現代史の転換点となった。これに異論を唱える歴史家はいまい。ナチス・ドイツのヒトラー総統、イタリアのムッソリーニ総統、イギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相が、南ドイツの中心都市ミュンヘンに一堂に会して、中欧の小国、チェコスロヴァキアの運命を話し合った。

 「これが最後の領土要求である」

 チェコスロヴァキアは、小ぶりながら、傑出した軍需産業を擁する工業国家だった。それゆえヒトラーにとっては何としても手中に収めたい戦略上の要衝であった。

 ドイツ系住民が多く住むチェコのズデーテン地方をドイツに割譲せよ――。英仏の首脳はヒトラーの要求をついに認めてしまった。英国のチェンバレン首相は、「これが最後」というヒトラーの約束を本気で信じたのだろう。だが、ほどなく中欧の小国は、チェコとスロヴァキアに引き裂かれ、ナチス・ドイツ軍はチェコを呑み込んでしまった。こうした宥和策を受け入れたチェンバレン首相は、全面戦争の危機を回避した勇気ある指導者として歓呼の声でロンドンに迎えられた。だがヒトラーの領土的野心はとどまるところを知らなかった。ドイツは英国の宥和主義を弱さのあらわれと捉え、翌39年にはポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発する。

 現代史の行方を決めたミュンヘン会談の当日、ひとりのアメリカ外交官がプラハの空港に降り立った。後にスターリンの全体主義に鋭い警告を発して、対ソ封じ込め政策を提唱するジョージ・ケナンである。運命の日に、やがて姿を消すチェコスロヴァキアに赴くとは何という偶然なのだろうか。

 アメリカ外交界の至宝と言われたロシア専門家、ケナンは、最後の定期便でパリのル・ブルジェ空港から発った。滑走路にはダラディエ首相の政府特別機が待機していた。この重要会談をプラハで見守っていたケナンはこう日記に記している。

 「ヒトラーは途方もない誤りを犯そうとしている」

 独裁者ヒトラーは、チェコスロヴァキアからズデーテン地方を割譲させることで、この国をおおむね制圧にしたにもかかわらず、すべてを強奪する愚行を犯してしまったのだと。

 「ミュンヘン協定を破棄したヒトラーは、西側諸国の信頼を最後の一片まで打ち砕いてしまった」

 ケナンの慧眼は怜悧にそう見抜いていたのである。

 ケナンの赴任からちょうど2年後。今度はひとりの日本人外交官がプラハに着任した。チェコスロバキアは独立を喪ってすでに一年半が経ち、ナチス・ドイツによる恐怖の支配は隅々にまで行き渡っていた。この日本人外交官こそ、前任地のリトアニア・カウナスで「命のヴィザ」を発給し、6千人のユダヤ難民を救った杉原千畝だった。1940年9月初旬のことだ。杉原がここプラハでもユダヤ難民に日本への通過査証を発給していた。だがその事実はほとんど知られていない。

 杉原研究家の白石仁章によれば、杉原がプラハで通過査証を発給したユダヤ難民は59人だという。最終渡航先はいずれも上海だった。プラハの総領事館前にも長い列ができ、発給までには数日待たなければならなかったという。日本の外務省が求めるように、渡航先に受け入れ家族があり、十分な渡航費を持っている者などいるはずはない。杉原はそれを承知で多数のヴィザを発給していた。だが、発給条件を満たした57人のユダヤ人家族だけを正式なリストにして本国に報告していたのである。

 そこには、発給条件を精査してヴィザを出しているように見せかけ、その実、寄る辺のないユダヤ難民を数多く救った杉原の素顔が垣間見える。当時のプラハはナチス・ドイツの完全な支配下にあり、ナチス・ドイツは三国軍事同盟を結ぶ真正の同盟国である。にもかかわらず、杉原は本省の意向に抗ってヴィザを大量に発給していたのはなぜか。スギハラ・ヴィザの紙背には全体主義への燃えるような反感が滲んでいた。

 だが、ヒューマニストとしての杉原というだけでは、これほど大胆な行動は説明がつかない。杉原千畝は、バルト海に臨む小国リトアニアの領事代理として、欧州全域に独自のインテリジェンス・ネットワークを築き上げていた。亡命ポーランド政権のユダヤ人情報将校から第一級の機密情報を入手していたのである。そしてユダヤ難民を救った「命のヴィザ」はその見返りでもあった。

 対ロ情報の切り札、杉原千畝を急きょリトアニアに赴かせたのは1939年5月に中央アジアの草原で勃発したノモンハン戦争だった。スターリンは猛将ジューコフに指揮をとらせ、ソ連赤軍の精鋭部隊をして大規模な攻勢を仕掛けさせた。日本にとって北方脅威が頂点に達しつつあったこの年の七月、ロシアの意図を探らせれば右に出るものがないインテリジェンス・オフィサー杉原に辞令が下った。

 杉原がカウナスに着任する五日前の1939年8月23日、スターリンはノモンハンで関東軍に痛打を浴びせたのを見届けて、ナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を結んでいる。日本にとっては北方の主敵であるソ連邦と欧州の友邦ナチス・ドイツが突如として「悪魔の盟約」を交わしてしまったのである。日本外交の羅針盤を粉々に打ち砕かれ、日本の統帥部は戦略の基軸を喪ってしまった。ここから日本の指導部は、迷走につぐ迷走を重ね、ついに真珠湾攻撃に突き進んでいく。南雲機動部隊がパールハーバーを奇襲したという一報に接したイギリスの宰相チャーチルは「われ勝てり」と叫んだという。希代の戦略家チャーチルの眼には、極東の強国ニッポンは、チャーチルが謀りに謀った罠に落ちたと映ったのだろう。

 杉原千畝が「命のヴィザ」と引き換えに、全欧の情報網から掴みとったインテリジェンスは一級だった。ヒトラーが独ソ不可侵条約を破り捨て、バルバロッサ作戦を発動して、対ソ戦に突入することをスギハラ電は精緻に予測していた。だが、日本の統帥部は、戦略の舵を定めるために、スギハラ・インテリジェンスを役立てようとはしなかった。

 このスギハラ情報網を引きついだのは、ストックホルムの駐在武官小野寺信だった。戦後の日本の運命を決めた「ヤルタ密約」こそ、ポーランド系ユダヤ人の情報網から入手した大戦中、最高にして最重要のインテリジェンスだった。だがこの小野寺緊急電は、統帥部が自ら破り捨てられた疑いが濃い。情報なき国家が辿った運命について、戦後70年を機に、いま一度思いを致してみるべきだろう。



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