手嶋龍一

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著作アーカイブ

「茶の湯・二都物語 ~ワシントン・京都~」
  (表千家不審庵HP茶の湯 心と美『清聴松風』)(HPリンク)

ワシントンD.C.の悠々庵にて

 それは私にとって何とも不思議な旅となりました。冷戦期にNHKワシントン特派員として四年を、9.11同時多発テロ事件を挟んでワシントン支局長として八年を過ごした特異な政治都市に茶の湯紀行で訪れたからです。東海岸に新たに表千家同門会米国東部支部が創られることになり、京都からお出ましになる千宗員若宗匠のお供をする貴重な機会をいただきました。五年前の初夏のことでした。
 アメリカで女性として初めて最高裁入りしたサンドラ・オコーナー判事と日本大使公邸の茶室「悠々亭」は訪れたことがありましたが、ここで正式な茶会が催されたことは稀だといいます。若宗匠がお点前をされ、スミソニアン博物館群の長官を務めるウェイン・クロー夫妻をはじめ、中国大使夫人など様々な方々が招かれました。
 「OMOTENASHIという日本語は知っていたが、一服のお茶でお客様を迎えるご亭主の心映えがどれほど細やかで美しいものか、初めて触れることができました」
 アメリカ共和党の実力者に永く仕える有力スタッフがこう感じ入っていました。
 ワシントンという政治都市では、大切なお客をレストランではなく、自宅でもてなすのが常となっています。ワインや料理や会話に心を砕いて客を迎えるのです。そんなおもてなしのプロフェッショナルたちの心をつかんで離さなかった「悠々庵」の茶会のひと時は忘れがたい思い出となっています。

千種の壺

 ワシントンの日本大使公邸で催された「悠々庵」の茶会では、床に而妙斎お家元が書かれた「寿」の軸が掛けられ、「千種」という銘をもつ茶壺が飾られていました。スミソニアン博物館のフリアー・ギャラリーが前の年に、ニューヨークのオークションで落札した唐物の大名物です。
 この「千種」には、堺の豪商、誉田屋徳林にあてた「あなたが見つけたこの茶壺は千金の値があり、末永く大切になさい」という千利休の書状が添えられています。東洋陶磁器の目利きとして知られるルイーズ・コートさんが美しい日本語で由来をそう説明してくれました。
 千宗員若宗匠は、十五代の歳月を経て、ワシントンの茶室で千利休ゆかりの茶壺に巡りあわれたのです。褐色の堂々とした壺を手のひらで包むように触れられた場面にご一緒できたことは幸せでした。都会の雑踏でいまも時おり「悠々庵」の一日を思い浮かべると爽やかな気持ちになります。

祇園茶会

 祇園囃子が響き渡る季節、私も末席に加えていただいている京都而妙会が受け持つ祇園茶会が一力亭で催されます。四年前に初めてご奉仕に伺ったのですが、幹事さんがご親切に心得を教えてくれました。
 「不慣れな場袴でご苦労さんですが、お運びの舞妓さんの裾だけは踏まんように」
 午前、午後と千二百人ものお客様をお迎えしてみると、じつに的確な助言であったことが分かりました。八人の舞妓さんが点てだしの茶碗を優雅な所作でお客様に運び、而妙会のわれわれが引きに出るのです。わずかの時間で一席に四〇人ものお客さんをお迎えするのですから、思わず裾を踏みかけて、冷や汗をかいたこともあります。
 ひと口に「点てだし」といいますが、水屋では三木町宗匠や左海大さんが総出で汗を拭きながらお茶を点てておられるのですから、なんという豪華な点てだしでしょう。私の所作が心もとないためか、左海祥二郎宗匠が襖の隙間から心配げに見てくださいます。
 今年こそ、一足立ちに挑んでみようと思うのですが、永樂善五郎さんが祇園茶会のために新調したお茶碗を思うと自信がありません。

高橋掃庵のこと

 あまりに面白い本の虜になっているうち、下車するはずの夙川駅を乗り越し、三宮まで行ってしまったことがあります。問題の本は、熊倉功夫著『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)でした。この本によって、掃庵高橋義雄という近代日本が生んだ偉大な数寄者がいたことを教えていただきました。
「数寄者の茶が既成の概念にとらわれない自由闊達な茶の湯であったということ、彼らは旧来の茶の破壊者であった」
 熊倉功夫先生は、近代数寄者の革新性をこう記して、彼らの精神的背景はその近代合理主義にあったと書いています。しかし、近代数寄者の近代化は決して西洋化ではありませんでした。日本の伝統文化に深く根差したものであったことを喝破しています。
 高橋掃庵は「時事新報」で福沢諭吉の薫陶を受け、若くして論説に健筆を揮ったジャーナリストでもありました。熊倉先生は、そのひとの横顔を活き活きと描きながら、「われわれの足元から、根こそぎ数寄の世界が消えつつある」と危機感をあらわにしています。
 茶道史の泰斗がそういわれるのですから、危機は眼の前にあるのでしょう。だとすれば、私が而妙会で拝聴している北村美術館の木下収館長の一言ひとことは譬えようもなく貴重な光芒なのかもしれません。

外交ジャーナリスト・作家 手嶋龍一

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