手嶋龍一

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著作アーカイブ

いくつもの仕事を当然とする
手嶋龍一が語るしごととは②

会社人生から新たな地平へ

ルポルタージュへ誘ってくれた、どぶ板通りの人々

 NHKもそうでしたが、巨大組織で働く若者の居心地は決して悪くないはずです。会社の名刺を持って訪ねていけば、どんな若造でも受け入れてくれます。でも心地よさは若者を鋼のように鍛えてはくれません。炭鉱の町で奔放に育った僕は、どこか異邦人だと感じていたのでしょう。大組織の人たちに迷惑をかけているのではと心配でした。自分にはやはり一人ぼっちが似合っている。それで横須賀へ転勤を願い出ました。人間ドラマに溢れた街は戦後ではたってふたつ。炭鉱と基地の街だったからです。米海軍の拠点ヨコスカは。占領期のニッポンが随所に残っていました。この取材拠点が20代の若者ひとりに委ねられたのですから、夢のようだったなあ。
 空母ミッドウェイの入港日程を掴み、脱走兵の情報を知るには、どぶ板通りに連なる外人バーが決め手でした。「セントルイス」のマスター、ジョージが米国から先乗りしてきた乗組員にあたりをつけ、僕が直接会って情報の裏をとる。彼のミッドウェイ情報はじつに精緻でした。ジョージこそ情報の結節点であり、インテリジェンス・オフィサーでした。
 「サイパンが死んだ」。ある早朝、ジョージが急報してくれた。サイパンこそ、戦争孤児にして基地の街の靴磨き。「最後のシューシャン・ボーイ」だったのでした。基地の街を写し取ったような彼の人生を15分のミニ・ドキュメンタリーに仕立て、「サイパンと呼ばれた男」のタイトルで放送しました。その直後に、新潮社の編集者、塙陽子さんから「彼の人生を書いてみませんか」と思いもかけない連絡をいただきました。僕は社会の闇を照射するジャーナリストになってやろうと志を立ててメディの世界に入ったわけではありません。そんな崇高な自覚もなく、筆を執る技量にも自信がありませんでした。ただ、送られてきた新潮社の原稿用紙はなぜか机の中にしまっておきました。

会社の建物に行くのが仕事ではない

 基地の街は、度胆を抜くようなネタの宝庫でした。イスラエルが小型ボートのメーカーに高速哨戒艇を発注し、密輸している―。一年余り取材して月刊プレーボーイにルポルタージュを書きました。でも、NHKにもちゃんと義理は果たしましたよ(笑)。「ルポルタージュにっぽん」で放送したのですから。担当デスクは、あまりのリスクに胃潰瘍を罹ったとのちに聞きました。相手は最強の諜報機関モサドだったのですから。
 後にワシントン特派員として米国に赴くことになりましたが、なぜかあの原稿用紙は携えていきました。東西冷戦が幕を下ろそうとしていた時、日米間でSFX・次期支援戦闘機の開発を巡る暗闘が持ち上がったのです。後に『ニッポンFSXを撃て』というノンフィクションを書いてようやく恩義に報いることができました。
 一つの組織への帰属意識に縛られていたら、この作品は世に出なかったでしょう。デスクの前の仕事を離脱することが、時として職場に貢献することもある。勝手にそう考えて、少し違う分野にも挑んでみてはどうでしょう。異質な仕事も両立します。重層的な仕事は人生の選択肢をぐんと広げてくれます。会社の建物に通うだけが仕事ではありません。会社を去るころに、自分の力を活かしきれなかったと悔やむのでは手遅れです。(談)

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