手嶋龍一

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日朝極秘交渉の深い闇

 現職の首相と極秘交渉にあたった元外交官が奇妙な論争を繰り広げている。発端は安倍晋三首相が「フェイスブック」へ投稿した一文だった。このなかで小泉政権時代にアジア大洋州局長を務めた田中均氏が、北朝鮮の高官ミスターXと極秘裡に交渉した記録の一部が外務省内に残されていないと指摘し、「彼に外交を語る資格はありません」と痛烈に批判した。これに対して、民主党の細野豪志幹事長や自民党の小泉進次郎青年局長らは「田中氏への個人攻撃はすべきでない」と擁護の論陣を張り、波紋はいまも収まっていない。

 こうしたなかで当の田中均氏は先月24日都内で講演し、「記録をつけていない交渉なんてありえない」と述べ、およそ外交官なら当時者のやりとりは必ず文書に残しておくと反論した。
 田中氏を擁護するメディアや政治家は、安倍首相が「交渉記録の一部を残していない」と指摘したくだりの重大さを見落としている。交渉記録の空白こそ、対北朝鮮極秘外交の黒々とした闇を物語っている。

 事実関係を簡潔に記しておこう。2002年9月17日、当時の小泉純一郎首相は、平壌を電撃的に訪れ、金正日総書記と日朝首脳会談を行った。この会談は、ミスターXと田中均氏の予備会談を通じて実現したのだが、水面下の交渉の核心部分に関わる記録や公電は外務省内に残されていない。田中均氏は「記録をつけていない交渉などありえない」と巧みに逃れているが、その記録を外務省内に残していないことこそ背信なのである。日本外交のゴールキーパーといわれる歴代の条約局長や国際法局長は「肝心の記録を見たことはない」と揃って明言している。

 小泉純一郎・金正日会談では、「平壌宣言」を発表して国交正常化に向けた道筋を明らかにし、額は明記されなかったが、1兆円とも言われる経済援助の実施で合意した。この宣言がどのようにしてまとまり、背後でいかなる約束が交わされたのか。とりわけ拉致被害者の救出をめぐって何が話し合われたのか。ミスターXの本名や所属組織を含めて一切が明らかにされていない。

 産経新聞のコラムで阿比留瑠比・編集委員はこう書いている。
「外交ジャーナリスト、手嶋龍一氏の小説『ウルトラ・ダラー』には、田中氏がモデルとみられる『瀧澤アジア大洋州局長』が登場し、日朝交渉を取り仕切る。作中で瀧澤が交渉記録を作成していないことに気付いた登場人物がこう憤るシーンが印象的だった」
 この人物の呟きを引用している。
「外交官としてもっとも忌むべき背徳を、しかも意図してやっていた者がいた」
作品は世に出た瞬間から読み手のものである。どう読まれてもいい。だが、わが『ウルトラ・ダラー』の瀧澤局長は、彼自身であって他の誰でもない。瀧澤局長は自らのなかに流れる血に真摯に向き合い、東アジアが波静かであるよう献身する。彼は父母それぞれの祖国に二重忠誠を誓った志の人であり、少しも祖国を裏切ってなどいない。瀧澤局長の名誉のために申し添えておきたい。

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