手嶋龍一

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拓殖大学日本文化研究所秋のシンポジウム
新渡戸稲造とその時代

太平洋を挟んだ隣国・日本とアメリカ。東西相触れる中で新渡戸は何を考え、何を主張したか。憎愛の日米関係を語り尽くす。

古森義久■産経新聞編集特別委員
手嶋龍一■慶應義塾大学大学院教授
渡辺利夫■拓殖大学総長・学長
草原克豪■拓殖大学元副学長
澤田次郎■拓殖大学教授
遠藤浩一■拓殖大学日本文化研究所所長

新渡戸が果たした大きな役割

遠藤 日本の政治というのは、日本国内だけではなく対外関係の中でどう舵取りをしていくかが問われ続けてきました。そしてこれからも問われ続けるので、今日のシンポジウムは大いに意義があると思います。
まずは草原先生に、新渡戸稲造が活躍した時代はどういう時代だったのか、日米関係の中で彼は何をしたのかをお話いただきたいと思います。
草原 新渡戸は札幌農学校で学び、第二期生で内村鑑三と同級生でした。それから国際連盟の事務次長として国際的に大活躍をしたことや敬虔なクリスチャンであったということ、第一高等学校校長として将来の指導者になるエリートを育てたことや東京女子大学初代学長を務めたことは比較的よく知られています。しかし、台湾総督府で仕事をしたことはあまり知られていません。東京帝国大学教授として植民政策の講義をしたことや植民政策の専門家として日本の満洲問題に深く関わっていたこともほとんど知られていません。それ以上に知られていないことが、新渡戸はアメリカ研究の先駆者であったということです。彼こそはアメリカ研究の重要性を早くから見抜いていた日本人の一人でありました。アメリカ研究が必要な理由を新渡戸は、「アメリカの歴史が世界史の重大な部分を占めていて、日米の関係を改善するため、デモクラシーを日本に定着化させるためにアメリカ研究が必要だ」と言っています。
 新渡戸は明治以降の近代史の節目で、三つの大きな役割を果たしています。一つは日露戦争の和平に貢献。新渡戸は『武士道』を書いて、世界に日本を紹介した。この本に感銘を受けた人物の一人にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトがいました。彼はこの本を何冊も自分で買って家族や友人に配り、読むことを勧めました。この本を通じてルーズベルトは日本と日本人に尊敬の念を抱くようになり、日露戦争の和平の仲介をすることになったのです。二つ目は、植民国家としての新興国日本に貢献。これは台湾での仕事です。新渡戸は後藤新平に請われて台湾総督府に招かれます。日本初の農学博士ですから、その専門性を生かして台湾の農業の振興を任されたのです。彼はサトウキビを用いて砂糖を作る製糖産業を近代化することで台湾を豊かにしようと考え、これが見事に成果を挙げました。数年後には台湾だけで財政の独立が図れるようになったのです。台湾の人達は後藤新平、新渡戸稲造に対して、今阿でも大変な感謝の念を持っております。三つ目は国際的な貢献。国際連盟事務次長としての功績です。一つだけ例を挙げれば、世界の平和は政治家や外交官だけが集まって実現できるものではなく、学者や文化人の交流が基本になければならないという考えから、知的協力委員会を創設して幹事役を引き受けました。
 もう一つ、日米関係の改善修復に大きな貢献をしています。新渡戸は生涯を通じて八回太平洋を越えて北米に行っております。頻繁にアメリカを行き来していましたが、彼が行く度にアメリカはどんどん変わっていく。その時期を三つに分けて、新渡戸が何をしたか。
 第一は一八八〇年から九〇年代。日本とアメリカが友好関係にあった時期です。この時期に新渡戸はアメリカに留学しています。ジョンズホプキンス大学で歴史学、経済学を学び、日米関係史という論文を書き上げて出版しています。そしてメリー・エルキントンというクエーカーの女性と結婚して帰国し、その後札幌農学校教授として教鞭をとります。その時にアメリカの開拓の歴史が北海道開拓や北海道開拓に従事している人たち役に立つと考えてアメリカ人の逸話を紹介しています。第二は一九〇〇年代から一九一〇年代。日米関係が悪化していく時期。カーネギー国際平和基金が主催して日米で学者を交換して、講演をしてもらおうという企画がありました。第一回の日米交換教師として日本からは新渡戸稲造が選ばれました。アメリカの四つの大学で、それぞれ四週間の集中講義をします。最初にスタンフォード大学で講演。その時に彼は「かつて留学していた時と比べて時代が変わったことを感じる。今サンフランシスコに着くとあちこちで色々な音が聞こえてくる。軍艦を造っている音、これが港から響いてくる」と言い、「日本はアメリカと戦おうなんて思っていない。アメリカも日本と戦おうなんて思わないでお互いに平和関係を続けていこうではないか」と呼びかけます。第三は一九二四年から一九三三年。日米関係が対立する時期。一九二四年にアメリカで排日移民法が制定されます。日本はこれに強く反対しました。新渡戸も真っ向から反対しました。彼はこう言っています。「この法律が撤廃されるまで二度とアメリカの土を踏まない」。ジュネーブで仕事をしている間に一度帰国しますが、アメリカを通らずにわざわざ不便なインド洋回りで帰ってきています。
 その後一九三一年に満洲事変が勃発しました。日本の孤立を見ていられなくなってアメリカに渡り、一年間アメリカの世論に日本の立場を訴えた。「二度とアメリカの土を踏まない」という決断を覆してまでアメリカに行く決心をしたのです。これこそ彼の奉公精神だと思います。アメリカ各地で講演しますが、行く先々で批判されました。そして新渡戸が帰国する途中で日本政府は国際連盟の脱退を決定し、一九三七年には日支事変が起こり、その四年後には日米開戦となるのです。

フェアプレーの精神

遠藤 次に澤田先生から、新渡戸はどういうスタンスでアメリカと向き合ったのかお話ししていただきます。
澤田 新渡戸は晩年に「フェアプレーというのは相手(外国)が正しければ譲ってもいい。相手が正しいことを言ってきたらそれを認めて受容する。しかし相手が間違っていたら、それに対して反論する。何もかも相手に迎合して譲るのはフェアプレーではない」と言っています。そして若い時からそれを実践していました。最初に留学した一八八〇年代のアメリカは人種差別が激しい時代で、日本人は馬鹿にされました。新渡戸がアメリカの町を歩いていると六、七人の不良がたむろしている。その不良たちは新渡戸に「やあ中国人、お前の髪の毛、辮髪はどうしたんだ?」と言い馬鹿にする。新渡戸はその不良たちを指差して大きな声の英語で「見たまえ、この連中はアメリカ合衆国の人民の中で最劣等の標本である。朝から晩までこいつらは煙草と酒ばかり飲んでいる無頼の徒だ。これが共和政治を誤まる連中である」と言った。そうすると不良たちは黙ってしまった。こういう時は英語がいかにうまいかで勝負が決まるのです。新渡戸はアメリカ人からも非常に好かれたし、新渡戸もアメリカを非常に愛していました。新渡戸はメリーというアメリカ人女性と恋に落ちて結婚しています。新渡戸はアメリカを愛していながらも、不当なことを言われたら言い返すがフェアプレーだと言い、実践したのです。
 新渡戸はアメリカだけでなく中国に対してもフェアプレーでした。一九三一年九月に満洲事変が起きます。満洲事変の前、中国側は国際条約で認められた南満洲鉄道に対して執拗な妨害をしていたのです。満鉄に対しての運行妨害、電線切断、投石。日本兵や日本の民間人に対して、迫害、発砲、襲撃、殺害などの事件も起きています。そこで関東軍が進撃していったのです。満洲事変当初、新渡戸は関東軍の行動に対して批判的でした。しかし、中国を是とはしていません。むしろ中国側の行動が日本を戦いに駆らしめたのだという考えでした。
 満洲事変から一ヶ月後の昭和六年(一九三一)、上海で第四回太平洋会議が開かれました。新渡戸は日本太平洋会議日本支部の委員長でしたから、日本代表として上海に行った。新渡戸は会議の席上で中国側をたしなめて、凄まじい勢いで席を立って退席した。相手が間違っている時は妥協しないのです。その時の周りで見ていた日本人の随員ですら、その迫力に驚いたようです。
 新渡戸は終始一貫してフェアプレーでした。相手が間違っていたら自分の正義を貫くために徹底的に主張したのです。新渡戸は「語学は雑用である。本当に準備すべきなのは腹の底である」と言っています。相手が何を言っても動じないで、自分の主張をできる胆力が一番大事なのです。

第一次世界大戦後の覇権国・日米

遠藤 次は渡辺学長に、第一次大戦前後、あるいはその後の日米関係についてお聞かせください。
渡辺 第一次世界大戦後の覇権国は明らかに日米両国になりました。「覇権国とは相手の覇権を認めない国家の事である」という解釈がありますが、絶妙な提議です。両雄並び立たずで、特にアメリカの日本に対する敵意は非常に激しいものでした。第一次世界大戦とは英独の対立です。大戦後のヨーロッパは、敗戦国だけでなく戦勝国も廃墟となりました。その中にあって軍事的な興隆を経験したのが日米です。日米も参戦しましたが戦場にはならなかった。のみならず、武器弾薬その他戦略的物資を欧州戦線にどんどん送ったので、生産力はどんどん高まっていった。そして戦争が終わると、当然のことながら日米が覇権国となっていたのです。ドイツが負けてドイツの脅威が消滅すると、日米がいよいよ大きな存在となった。この二国の覇権争奪の場は中国大陸でした。中国をめぐって、日米は激しく対立したのです。平間洋一さんが日英同盟についての著書を書いているのですが、その中にこういう一節があります。

大戦後のアメリカの対日政策は、国際世論の非難を日本に向け、日本を孤立させて日本に政策転換を促すことを狙い、伝統的な門戸開放政策を旗印に、戦時中に日本が確立した中国大陸の既成事実を覆すことであった。(平間洋一『日英同盟―同盟の選択と国家の盛衰』PHP新書)

 アメリカはどのように日本の勢力拡大を抑止しようと考えてきたか。第一次大戦後のパリ講和会議で、アメリカは日本の勢力を抑止すること成功しなかった。そこで二年後に自ら主導するワシントン会議を開きます。その会議でアメリカは日本に軍縮を迫り成功します。
 極東の小国の日本が力を持ったのは、日英同盟だとアメリカは判断しました。そこでアメリカは、日英同盟分断に力を注ぎ、日英同盟を廃棄に追い込みます。アメリカは、日本とイギリスに「二国間同盟は古い。今後は複数国間の協調外交だから、日英に米仏を含めた四国で協議しよう」と提案し、これに従ったのです。ワシントン会議で成立した四国条約には「該締約国ハ共同会議ノ為、他ノ締約ヲを招請シ、当該事件全部ヲ考量調整ノ目的ヲ以テ其ノ議ニ付スベシ」とあります。日本が大陸に持っていた国際法上認められた権益もこれによって失います。中国問題は日本だけは決定できなくなり、四国で協議して決めることになってしまったのです。中村粲先生が次の名文を残されています。

日英同盟廃棄は当然日本を国際的孤立の方向に追ひやる結果となつた。同盟に代る四国同盟は某外交官をして「我々はウィスキーを捨てて水を受取つた」と嘆息せしめたほど、無意味かつ無力な盟約だったからだ。(中村粲『大東亜戦争への道』展転社)

 同盟は二国間同盟でなければ意味はない。同盟はウィスキーのように濃い。しかし三国四国になると水みたいに薄いもので同盟としての機能を果たさないということです。今の日本にとって重要な同盟とは日米という二国間同盟です。新渡戸がアメリカで頻度の密度の濃い講演旅行を行っていた時期の地政学的状況はこのようなもので、日米の鋭い対立が顕在化しつつあった時代でした。このことをシンボライズしたような出来事が排日移民法の成立でした。
 国際的な権力政治というものは、第一次世界大戦後も今日も、そう変わっていないと心すべきではないかと思います。だから私たちは、かつてのアメリカの対日外交から学ぶべきものがある。つまり、日英同盟を廃棄に追い込めば、日本の力は大したことないと踏んで、そこに努力のすべてを注ぎ込むような外交的な鋭さ、外交感覚の研ぎ澄まされた姿を一つ教訓として学んでおかなければなりません。ワシントン体制というのは、外交戦におけるアメリカの勝利であり日本の敗北であろうと思います。ある人が「外交とは武器を用いないでする戦争だ」と言いましたが、つくづくそう思います。現在の日本の外交のあり様が、いかにあやふやで頼りないものかが、そこからも透けて見えます。
遠藤 歴史から今日の外交に関しての教訓に言及していただきました。そこで今度は第二次大戦後の日米関係、日米同盟の本質というのは一体何か。それは今日では変化しているのか変化していないのか。もし変化しているとすればそれは何が変化しているのか。手嶋さん、よろしくお願いします。

日米同盟の命永らえさせた若泉敬

手嶋 日英同盟が四ヶ国軍縮条約に溶解してしまった―これは近代日本の重要な転換点でした。。アメリカの巧みな外交が日英同盟を溶かしてしまったとも言えるでしょう。只今のお話をお伺いしながら、日英同盟の終焉こそ後の日本の国際的孤立を招く出発点になったという感を深くしました。
 北朝鮮の核問題を話し合う六ヶ国協議が出現した時、私はワシントン特派員でした。戦後のアメリカ外交、とりわけ対東アジア外交で、アメリカの犯した戦略的誤りは、この六ヶ国協議に過ぐるものはないと一貫して指摘してきました。とりわけ六ヶ国協議の議長国に中国を指名した誤りは決定的だったと後の歴史家も書くでしょう。現実に六ヶ国協議は核の廃棄に何の役にも立っていないだけではない。戦後の東アジアと日本の安全保障を担保してきた日米同盟を溶解させる危険を孕んでいます。実態的には六ヶ国協議が日米同盟の上部にどっかりと乗っかってしまっています。先ほどの日英同盟と四ヶ国軍縮条約の話と見事な対比をなしています。やはり歴史を学ぶことは大切だと改めて思いました。日米同盟の上位に六カ国協議が位置し、中国が六ヶ国協議の議長国として采配を揮う構図ほど日本の国益を損なうものはありません。中国が外交・安全保障上のリーダーシップを一たび握ってしまうと、二度と離そうとするわけがありません。中国と北朝鮮は必ずしも利害を同じくしているわけではありませんが、日本と中国はさらに利害が錯綜していますし、そんな国に主導権を渡して国益が貫けるはずがない。現に拉致問題をとっても、核問題や長距離ミサイルの問題をとっても、協議では何ひとつ前進していません。やはり多国間協議の体制など、本当に儚いものだと思います。
 今日このシンポジュームに出掛けてくるにあたって、一冊の本を本棚から手に取ってまいりました。それは読み古した英文で書かれた新渡戸稲造著『武士道』です。この本を度々読み返していたのはいまは亡き若泉敬さんでした。若泉敬さんは、日米同盟が沖縄返還によってさらに三十年も命長らえるうえで、おおきな役割を果たしたひとです。そう、沖縄返還をめぐる密約交渉に身を挺したのです。
 沖縄返還にあたっては、本土並みに核兵器なしで復帰させることは固まっていました。しかし有事が持ちあがり、東アジアが戦争になった時には、沖縄への核兵器の持ち込みを認める――。日米間の最高首脳の間で極秘文書が取り交わされました。最後は「リチャード・ニクソン」と「エイサク・サトウ」とフルネームで署名までしています。
 ホワイトハウスのオーバル・オフィス(大統領執務室)の隅の方にデンという小さな書斎があります。これはヘンリー・キッシンジャーが仕掛けたのですが、佐藤栄作総理をこのデンに誘い込んで、「イニシャルを、エイサク・サトウのESと書けばいい。ニクソンもイニシャルでいく」と事前の打ち合わせができていました。ところがニクソンは、なんとフルネームで署名をしたのです。これは多分、意図的にそうしたのでしょう。それを見て佐藤総理は一瞬ひるむのですが、先方もフルネームですから、こちらもフルネームで署名せざるを得なかった。
この密約を知っていたのはたった四人です。ニクソン大統領、ヘンリー・キッシンジャー(当時大統領特別補佐官)、そして日本側は佐藤総理に若泉敬さんです。これ以上の国家機密はありません。当時は冷戦の真っただ中です。日本の国会でその片鱗でも明らかになれば内閣がひとつやふたつふっ飛ぶような事態になっていたことでしょう。その機密をたった一人で背負ったのが、京都の大学で教えていた若泉敬さんでした。この密約交渉をきっかけに福井県の郷里鯖江市に突如として隠生してしまいます。
 若泉敬さんの獅子奮迅の働きで、日米同盟は三十年、命長らえることになったのですが、その晩年は悲劇の様相を帯びていきます。私は晩年の若泉敬さんと交流があった最後の世代ですが、この志のひとは、国家機密をすべて墓場に持って行くと決意していました。しかし、その後の日本の政治状況を見るにつけ、深い絶望に駆られていきます。私がヨーロッパに在勤していた時も、行間に深い絶望を滲ませた手紙を幾度もいただきました。手紙には、今目の当たりにしている日本の現況を「愚者の楽園」と呼び、この人たちのために、この国のために自分はすべてを抛ったのかと、深いため息を漏らしています。そして長い逡巡の末に、全ての機密を原資料に基づいて書き残そうと決意します。こうして沖縄密約の全貌を明らかにする著書を文藝春秋社から『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』と題して上梓しました。まだ誕生間もない明治国家が三国干渉を受け、時の陸奥宗光外相が「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」と記した著書の一節を引いて標題としています。沖縄返還交渉の密約締結を重ね合わせたのでしょう。沖縄の方々には秘密にして密約を結び、そのことによって日米同盟を生き長らえさせる以外に「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」と信じたのです。実は若泉敬さんは、この書を書き終えて、自ら命を絶つという覚悟でした。「せめて英文でも著書を残すまでは」という私たちの説得を容れてくれました。そして英文の原稿が出来上がり、最後の校閲をオックスフォード大学の博士課程にいたジョン・スウェンソン・ライトと済ませ、ジョンが小松空港から羽田を経由してロンドンに帰ったことを見届けて、自ら毒杯をあおって自裁したのです。
 この若泉さんが「書斎の中から手嶋に好きな本を」と遺言執行人に伝えていたといいます。そして鯖江の自宅を訪ねて二冊の本をいただきました。その本の一冊が、『武士道』でした。ちなみにもう一冊は、これも読み古した石光真清著『城下の人』四部作の豪華装丁本でした。
 ここで、戦後の日米同盟のありようを振り返ってみたいと思います。戦後の日本の外交・安全保障政策は「軽武装、経済重視」という言葉に象徴されます。当時は敗戦国でしたから、重武装に向かう社会的な背景も、世論の支持もありませんでした。その一方で、一九四九年以降はアジアでも冷戦が厳しい現実となりました。当時の日本は、軍備の足らざるところはアメリカとの安全保障条約によって補い、経済大国としての道をひたすら駆け上がっていきました。
 戦後は冷戦期と冷戦後と大きく二つに分けることができます。ターニングポイントは一九八九年にベルリンの壁が崩壊した時期です。その象徴的な事件が「日米FSX戦争」と言われた、次期支援戦闘機の研究・開発をめぐる日米の激突です。冷戦期には、主力戦闘機はアメリカ製の戦闘機をしのまま買い、後には日本で組み立てるようになりました。そして支援戦闘機については、日本に軍用機の技術を温存させるという意図もあり、日本製の戦闘機をあててきました。その支援戦闘機の耐用年数が来た時、防衛庁、通産省、自民党防衛族は揃って「国産をと考えていました。しかし、アメリカ側からは、「支援戦闘機もアメリカ製を買え」という圧力がかかったのです。そして、戦後初めて安全保障分野での日米の激突が繰り広げられることになりました。この詳細は拙著『ニッポンFSXを撃て たそがれゆく日米同盟』(新潮文庫)に収めていますのでご覧ください。結果は日米共同開発ということで決着しました。
 冷戦期の主要な敵であるソ連が姿を消した時に、同盟の姿形が変わっていったのです。冷戦期のアメリカは、西側の盟主として、東アジアでのキー・ストーンである日本を何としても握り続けておかなければならない。そこで経済の分野では大幅に日本に譲る。アメリカの市場は日本に開放するが、日本の市場は半ば閉じているというハンディをあえて見過ごす。その代わり、外交・安全保障という分野で、がっちりと日本を握り続けたのです。しかし冷戦の主要な敵であるソ連が崩壊し、もはや日本にハンディを与えておく必要はなくなりました。その果てに起きた象徴的な事件が「日米FSX戦争」だったのです。そしてそれを機に日米同盟は新しい時代に入っていきました。
 このように太平洋の戦略環境が新しい地平に入り、今までのようにアメリカという大きな傘の下に身を寄せていけば何とかなるという時代は過ぎ去りました。今後は日本が主体的に日米同盟のグランドデザインを描いていかなければいけない。にもかかわらず、政治の指導力が疲弊し、ニッポンの存在感は希薄になっています。こんな現状を若泉敬さんが見ればさらに絶望感を募らせることになったことでしょう。国政レベルを担う政治家の仕事は、外交、安全保障の舵取りです。しかし、戦後の日本は、あろうことか、アメリカにその大事な舵取りを丸投げしてしまった。自らの行く手は自らが決めるという国家の基本に立ち戻らなければ、国は滅びてしまいます。

日本」が出てこない大統領選挙

遠藤 ありがとうございました。次は、つい先日までアメリカ大統領選挙を取材していた古森さんにお話いただきたいと思います。よろしくお願いします。
古森 今回のオバマ対ロムニーの大統領選挙は、大きな基本的な政治の理念、イデオロギーの戦いでした。ごく簡単に言うと大きな政府か小さな政府かです。オバマは国民が問題を抱えた場合、あるいは弱く貧しくなった場合、とにかく政府がお金を使って労を費やして救うというリベラリズムの大きな政府という考え方。この四年間の結果、どうもうまくいかなかった。保守主義といわれる共和党は逆の小さな政府という考え方で、政府の介入は少なくして民間の自助努力、市場経済の自由な競争に任せておけば経済も社会福祉もよくなるという考え方。保守主義というのは、自由に競争すれば誰かは勝つ、誰かは負ける、極端に負けた場合は社会福祉で救えばいいという考え方で、この基本の潮流が激突したのです。
 アメリカの普通の国民に「あなたは自分を保守主義者だと思いますか、リベラリストだと思いますか」と聞くと、二対一の比率で保守主義者が多い。オバマがこの四年間で一番力を注いだのは医療保険の改革です。日本では国民に健康保険があるのは当然なのですが、アメリカでは反対する人が多いのです。ですからオバマはこの四年間で一番エネルギーを使った医療保険についてはほとんど語らないで、「私はリベラルじゃない」ということを打ち出して選挙を戦った。それにプラスしてロムニーは弱肉強食で投資企業をやっていて、儲けた金持ちばかり優遇しているというネガティブ・キャンペーンをはり、これが功を奏したのです。
 結果はオバマが勝ちましたが、総得票はオバマが六千百万票、ロムニーが五千八百万票。差はたった三百万票で全体の二パーセントぐらいしかありませんでした。だから、これからこのイデオロギーの戦いは延々と続いていくことになる。その結果、アメリカ全体の国力は弱くなっていくのではないかと思っています。
 今回の大統領選ほど外交問題が大きな比重を占めなかった選挙はありません。一般の世論調査で「今度の大統領選挙で何が一番重要ですか」という問いに、外交とに答えた人が五パーセント、経済答えた人六〇パーセントです。そしておそらく、メインの討論で日本という言葉が出なかった大統領選のキャンペーンは、今回が初めてだと思います。ジャパン・パッシング、ジャパン・ナッシング、ジャパン・バッシングという悪い意味の場合も多くありましたが、今回の選挙では、日本に対するアメリカ人の政治的な皮膚感覚はなかった。日本は考えなくてもいい存在だったということになります。
 大統領選挙、あるいはアメリカの国政の場で日本について一番激しく話題になった時期は、やはり一九八〇年代です。経済摩擦、日本の自動車だとかテレビとか鉄鋼とか、とにかく日本の優れていて安い製品がどんどんアメリカに入っていき、アメリカの企業がどんどん倒産していく時期がありました。今から見ると夢のような話ですが、この時は日本が語られればいいのだという考え方でした。
 そういう時代もあったのですが、今回は全く日本が出てこなかった。これは日本経済が衰えているのが大きな原因です。経済だけでなく政治も衰えていいる。総理大臣がすぐに変わってしまう。これは日本人として悲しいのですが、民主党政権になり鳩山由紀夫総理の当初の言動は、アメリカ側をびっくり仰天させてしまった。アメリカ政府の高官が「あの人はルーピーだ」なんて言うのですから、これはもう前代未聞の話でした。その後菅総理になりました。アメリカ側はやはり非常に研究していて、菅直人の今までの政治的軌跡を見て、彼は反米だということがわかる。
 アメリカから見て、日本との絆の大事な部分はやはり安全保障、日米同盟です。その日米同盟を否定することを連日話す総理大臣が出てきたのです。同盟とは味方か、味方ではないかです。それなのに「日本はこれからアメリカと中国の間に立って仲介役を務める」と言う。こんな破壊的な言動が続いたので、日本の政治リーダーの言うことをまともに聞いていると馬鹿馬鹿しくなってしまう。だから日本の発言はあまり真剣に捉えない。その結果、アメリカの政策担当者の認識からは日本の比重がどんどん減ってしまったのです。ですから鳩山由紀夫首相が辞めた日は、近年の日米関係で最も明るい日だったと言えるのです。
 では、アメリカは日本を軽視しているのか。決してそうではありません。「日本を信頼していますか」という世論調査をやると八〇パーセントが「はい」と答える。「日本は好きですか」という質問にもやはり八〇パーセントが「はい」と答えます。圧倒的な多数派です。在日米軍で日本に勤務した人が帰国して日本にいい印象を持っていることもあるのでしょうが、客観的に見ても日本はいい国です。三・一一の時、私はアメリカのマスコミから「なぜ日本人は整然と静かに矜持を保ちながら大震災に対処していけるのか」という質問を何回も何回もされました。関西の大震災の時も同じです。アメリカだとルーティングと言われる略奪が起きる。それは多人種、多文化国の宿命なのかも知れません。それから、トモダチ作戦はアメリカの日本に対する熱意を感じました。やはりアメリカは日本に対しての友好的です。
 ただ、そういう善意の貯水槽のようなものが、国と国の関係、政府と政府の関係にうまく反映されていくわけではない。アメリカが日本に期待しているのは安全保障での積極的な役割です。ここに中国という要素が出てくる。先ほどの先生方のお話でも、戦前はアメリカが日本を敵視していた、中国を舞台にして日米が対立して戦争に走っていった、日本人が排斥されたとかというお話が出ましたが、現在はその逆で、中国の言動によって日米の絆が強まってきているという側面があると思います。ある意味では、中国のお陰でアメリカの日本に対する期待がどんどん高くなってきている。その背景にはアメリカの国力が弱くなっているなどの事情もありますが、やはり中国の言動が日米の絆を強めているのは間違いないでしょう。
 当面のオバマ政権の外交政策ですが、ロシア、中国、中東、北朝鮮に対しては政策の選択肢がかなりあるのですが、日本との関係、対日政策に関しては、選択の幅がほとんどありません。だから必然的に安全保障の関係をがっちり固めておくということになります。アジアではアメリカが優越した軍事力を持っていて、それが安定と平和を支える抑止力となる。その結果、日本は経済的繁栄を得ることができたのです。今後もその状態を保ちながら、経済ではお互いが得をするように、経済の絆も親密にする。
 どうしても現在の対日政策は中国と重なっていると言うか裏と表のようになっているので、中国のことも含まなければなりません。オバマ政権が誕生した時のアメリカは、中国に対して健気なくらいソフトな政策をとった。「とにかく国際ルールを守って我々と一緒にやろう。あなた方は共産党の独裁体制で人権弾圧とかがあるけれども、仕方がない。国際的な舞台においては仲良くやろう」と様々なオリーブの葉を差し出した。ところがこの二年間で中国はそれをことごとく裏切り、アメリカの申し出に応じなかった。
 中国は中国のパワーの拡大を「平和的発展」と言っています。オバマ政権の登場当初、G2という言葉が出てきました。これはグループ・オブ・ツーというアメリカと中国の二国だけでこれからの国際関係を仕切っていくということです。G7とかG8のもっと極端な形です。ところが、今から考えるとG2は幻想だったということがわかります。しかしワシントンではG2が定着した言葉となって、健気な善意と友好に満ちたオバマ政権もさすがに方向転換をして、去年十一月に「新しいアジア政策、アジア戦略」を発表したのです。
 これはバランスを再均衡するということです。それからピボットという言葉を使いました。ピボットというのは回転させるということです。オバマ政権のアジア戦略というのはアジアへのピボット、アジアに戻っていくということです。イラクやアフガニスタンで不要となった戦力要員を、アジアに回そうということです。
 アジア戦略にはいくつかの項目があります。オバマ政権で国家安全保障担当・大統領補佐官をしているトム・ドニロンという人物が挙げた最初の柱が同盟の強化です。一番の同盟国は日本です。日本との同盟強化がアジアの新戦略の要になる。それから韓国、オーストラリア、フィリピンといった同盟国。その後にインド、インドネシア、シンガポール、ベトナムです。これらの国々をつなぐと円形ができて、その円の中に中国が入っている。ですからこれは明らかに中国を対象とした動きです。
 大統領選挙も中国が一番大きな話題になって、オバマは「中国はアドバーサリー(敵対者。かなり過激な言葉で、戦争している相手に対して使う言葉)であると同時に潜在的なパートナーである」と言っていました。どちらになるかは中国の言動次第だということです。  こうした流れの中で、アメリカにとって対日同盟は今まで以上に重要になると思います。

東アジアへピボット

遠藤 抬頭する中国が日米関係の緊密化を促しているというご指摘でした。手嶋さんに伺いたいのですが、日米同盟の変化が東アジアに対して影響を及ぼしているという見方があると思うのですが、手嶋さんはどうご覧になっていますか。
手嶋 オバマ政権第一期目の二〇〇九年の秋、オバマ大統領が来日し、サントリー・ホールで重要な演説を行いました。スピーチにこめられたメッセージは東アジア・環太平洋重視であり、「アメリカは東アジアに帰ってくる」ということだったと私は受け止めています。十一年前の九・一一同時多発テロ事件の前は、中東はあらゆる紛争の芽を内包していましたし、一方の東アジアも中国の急速な台頭や北朝鮮の核やというファクターを抱えていました。超大国アメリカとしては、当然この二つの地域に十分な睨みを利かせていなければならない。しかし九・一一事件をきっかけに、アメリカはまず、中央アジアのアフガニスタンに軍事力を行使して戦争を始め、その後はサダム・フセインのイラクに焦点を定めて対イラク包囲網を狭めていきました。アメリカの戦略の基軸は中東に大きく傾斜していった。その結果、東アジアに巨大な戦略上の空白を生じさせてしまったのでした。
 それを裏付けるように、東アジアでは北朝鮮が二〇〇六年、二〇〇九年、そして今年二〇一二年と三度にわたって長距離ミサイル発射実験を行ないました。前二回は前後して核実験に踏み切りました。アメリカの睨みが十分に利いていたならば、やはり発射実験をためらったはずです。しかしキム・ジョンイルは当時のアメリカの安全保障外交を一手も読み誤ることがありませんでした。アメリカは動けまいと判断して、北朝鮮は核実験を行いました。。しかし何かしなければ国際社会に超大国としての面子を損なってしまう。辛うじて北朝鮮に対する国連の制裁措置を決議するのがせいぜいでした。しかし北朝鮮にとっては何の痛痒も感じない。ですから核実験や長距離ミサイルの発射を許してしまった。アメリカの永き不在がいかなる結果をもたらしたかは明らかです。
 アメリカの安全保障の基軸が中東に傾くことは、このように東アジア情勢に大きな影響が与えました。アメリカは自らの不在の穴を埋めるため、北朝鮮の核問題を話し合う六ヶ国協議を立ち上げました。しかし、あろうことか、中国を議長に指名して外交上の主導権を渡してしまったのです。オバマ氏は「ブッシュの戦争」を批判をしてホワイトハウスに入りました。そして、その戦略上の空白を埋める証として東アジアに帰ってくると宣言しました。それが「サントリー・ホール演説」でした。しかし、鳩山由紀夫総理は「トラスト・ミー」と言いながら、日本側は日米同盟の再構築にとって重要な普天間問題に何らの手も打ちませんでした。そして同盟の亀裂を広げていったのです。民主党政権は、自民党政権時代に既に兆していた日米同盟の亀裂を決定的に広げたのです。
 二〇一一年、オバマ大統領はオーストラリアのキャンベルで演説しています。その時には、環太平洋・東アジアを重視するという基調は変わりませんでしたが、もはや東アジアの中核を同盟国日本が占めているとは受け取れない内容となってしまった。それを裏付けるように、沖縄の海兵隊の半ばをハワイ・グアムそして初めてオーストラリアのダーウィンに移すことが明らかになります。日米同盟を再建するための取り組みが急務でしょう。
渡辺 日米同盟のリバランス、ピボットのきっかけになるのは、やはり第一次戦後と同じように中国問題だろうと思います。日本にとって中国問題というのは厄介ですが、いつも外交を展開させる中心的な存在でもあります。中国は尖閣諸島付近で大変挑発的な行動をとっております。そして十年、二十年と、中国は日本に対して圧力をかけ続けてくるだろうと思います。中国の軍事研究を専門としている同僚に聞いてみますと、今の中国には、尖閣で日中が戦うほどの軍事力はないようです。ましてや日米同盟が発動される尖閣周辺の南西地域で、そう簡単に軍事力を発揮するというわけにはいかない。中国は国内で矛盾を山のように抱えていますから、そこで敗戦したり、もしくは引き分けという状況であっても、相当のエネルギーを注ぎ込むことにり、国内的矛盾のいくつかが吹き出すことになります。そうであれば、中国はそんな戦いはしないだろうと思います。
 中国の指導部は徹底的に合理主義的な集団ですから損する戦いはしない。だから、今起こっているよりもレベルを上げた強圧をかけてくると思うのです。これを十年、二十年と続ければ、そのうちに中国の戦艦が接続水域に現れても、領海侵犯をしても、段々とニュースにもならなくなる。そして日本は首相が頻繁に変わりますから、そのうちに「共同管理」だとか「アジア太平洋諸国で尖閣の帰趨を決定してもらおう」なんて馬鹿な意見を言うルーピー首相が出てくる可能性もある。中国はそれを待っている。中国の堅固なる意志を私たちは見誤ってはいけない。
 この間、十八回目の共産党大会が始まりました。毎回、初日の午前中に党総書記が政治報告をやります。この政治報告は長い演説なのですが、重要度の高いものほど早いのです。今回はかなり早い段階で「海洋権益の堅持」「海洋強国の建国」と言っている。南シナ海、東シナ海の征海権を握ろうという意志は、極めて明確なものだと思います。共産党大会が終わって時を置かずに、今度は政治局の中央委員会総会が開かれます。中国では、約二百人のこの総会ですべてが決定されているのです。その中央委員会で、習近平が新しい党総書記として決定されました。中国における最大の権力集団は人民解放軍です。その人民解放軍のトップが党の中央軍事委員会の首席なのです。これも習近平さんになりました。おそらく習近平は十年ほど続くと思います。この十年間、日本は相当な覚悟を迫られることになります。
 習近平の権力基盤はかなり弱いものだと思っています。革命戦争を戦って建国をした毛沢東が第一世代。その後の代に世代が鄧小平。この二人は戦争を戦った、つまり軍人です。軍歴も豊富にあり軍功もありカリスマ性もあるトップだった。しかしその後の三人、江沢民、胡錦濤、それから今度の習近平は軍人ではなくて文民です。だから政治的な凝集力を持っていないトップと言えます。江沢民と胡錦濤は鄧小平という最高実力者に指名を受けたという意味では、権威の源泉が多少あったも言えます。しかし習近平は訳もわからずに決まっているのです。そして訳もわからずに党大会の開催が一ヶ月も延びたのです。私たちには、闇の中で諸派閥間対立があって、権力闘争があり、その妥協の産物として習近平体制が生まれたように見えます。習近平には軍歴もなければ軍功もない、カリスマ性もない。つまり権力基盤が弱いのです。政治的凝集力もほとんどない。
 すると彼は新たな権力基盤をどこかに求めていかなければなりません。その権力の基盤の源泉は紛れもなく人民解放軍、武力集団だと見ていいと思います。その支持を取り付けなければ、自分の政権を保てない。支持を取り付けるためには譲歩に譲歩を重ねていかなければならない。ですから江沢民の時代のように、将軍の数をどんどん増やしたり軍のビジネスを認めたりして、軍事票を拡大していく。すると人民解放軍はそれに刺激を受けて、権力の自己膨張を図ろうとする。その結果、西南海ないし尖閣を中心とした領域での軍事的挑発をやってくることになると思います。
 皮肉な話ですが、権力基盤が脆弱であるがゆえに軍部の支持を取り付けなければならず、そのために譲歩をしなければならない、軍部の自己膨張に力を貸さなければならない。それを権力の基盤にするというデススパイラルが中国で発生する。おそらくアメリカは、こうなることを想定していると思います。したがって、アジアへのピボット、リバランスが発生してきている。
 日米同盟について、歴史に乗じて話をしたいと思います。中村粲先生は日英同盟廃棄についてこう表現しています。

我国はその後(日英同盟廃棄後)、極東情勢に単独で対処する他なかつた。最も同盟の必要な時期にそれがなかつたのだ。日本は自ら望まずして孤立へと追ひやられたのである。以後、大東亜戦争に至る迄、我国が歩んだ孤立と苦難の二〇年を思ふ時、日英同盟消滅せざりしかば、の感を深くせざるを得ない。(中村粲『大東亜戦争への道』展転社)

 これが中村先生の日英同盟廃棄に対する嘆息なのです。私もこういう名文を一度は書いてみたいと思います。私は日米同盟の将来を憂慮する者の一人でありますが、中村先生に敵うわけがないので、中村先生の分の上に文字を乗せて表してみました。後世の史観によって次のように嘆息される日本であってはなるまいと思います。

 我国はその後(つまり日米同盟が廃棄されたという仮定)極東情勢に単独で対処する他なかつたのだ。最も同盟の必要な時期にそれがなかつたのだ。日本は自ら望まずして孤立へと追ひやられたのである。以後、日中戦争?(米中戦争? 第二次太平洋戦争? 第三次世界大戦? いずれかの戦争が将来起こると仮定)に至る迄、我国が歩んだ孤立と苦難の二〇年? を思ふ時、日米同盟消滅せざりしかば、の感を深くせざるを得ない。

 安全保障や防衛は「まあいいや」では済まない。万が一に備えることは重要です。そう思って中村先生の一文「日英同盟廃棄に対する嘆息」を読むと、やはり日米同盟についても同じだと思います。

日米の価値観は一致しているか

遠藤 古森さんにお伺いします。日本は何をしなければいけないのか。日本とアメリカの同盟は意義があると思いますが、その同盟を支えるものは何かについても言及していただければと思います。
古森 一言で言うと、戦後日本の基本的な価値観を変えざるを得ないということだと思います。戦後六十年間かけて築いてきた日本という国はいい国です。経済的に恵まれていて食べ物に困っている人は少ないし、言論の自由もある。私は二年間北京にいました。例えば、日本では「野田佳彦首相はけしからんから辞めろ」と言っても構わないけども、中国で「国家主席はけしからんから辞めろ」なんて言ったらすぐに捕まってしまう。日本と中国にはそれほど価値観の違いがある。こういう価値観の国が、強大な軍事力を持って隣にいるのです。しかし、日本は安全保障についての意識が欠けるというよりも持っていない。この意識を変える必要があります。
 私は、時々ワシントンで日本のテレビドラマを見ることがあります。韓国のドラマも実は見てしまうのでが、比較すると韓国のドラマの方が面白い。それは国家のために何かをするという概念が出てくるからです。それから自分を犠牲にする概念や正義のために戦うという概念がある。戦後の日本は戦うということはいけない、国家もいけない。だから日本のドラマのテーマは、不登校とかです。これからは、思いやり、家族、地域コミュニティー、日本の社会、国家、こういったテーマを考えなければなりません。健全な国家意識を持つと、尖閣はどうでもいいというようなことにはなりません。
 それから大事なのは安全保障、防衛です。八月に日本に帰ってくると「平和、平和」と騒いでいます。では平和とは一体何か。戦争さえなければどんな平和でもいいのか。例えば植民地になり、中国の日本自治区になっても平和であればそれでいいのか。あるいは民主主義や個人の自由は全くないけれども平和であればいいのか。日本では平和の質や中身が問われることはありません。
 戦争というのは一体どういう時に起きるのか。戦争が好きな指導者や国はありません。ヒトラーやポル・ポトにしたって、戦争すること自体が目的ではあり得ない。当然、目的として政治・経済、または領土などがある。それを国家として、あるいは人間集団として手に入れようとする時に、まずは話し合いをして要求をする。そして威嚇をする、経済制裁をするなどの手段を講じて、最後の最後の手段として軍事手段に走る、これが戦争です。
 普通の理性ある国家には戦争をする時には目的があるのです。だから勝てると思ったら軍事力を使うというのは、この世界の悲しい現実です。だから相手に戦争を起こさせないためには軍事を備えなければなりません。軍事という物理的な手段で国を守るということは有効なのです。だから軍事を持つのは戦争を防ぐためでもあるのです。
 日米関係を担当しているアメリカの安全保障の人たちは日本の平和主義を、平和と言うだけの消極平和主義と言います。火事が嫌いだから消防署をなくしてしまえという論理です。現在の日本の平和主義とは、備えがなければ憂いもなしということです。何もしなければ絶対誰も襲ってこないと考えているのでしょうが、そんなはずはありません。
 こうなった原因を辿っていくと、やはり残念ながら憲法に行きつきます。現行憲法による自縛があるのです。自衛隊がイラクに駐留した時さえ、何かがあっても発砲してはいけないから、バングラディシュの軍隊に守ってもらうということになったのが現実です。だから憲法を改正しなければなりません。詳しくは、拙著『憲法が日本を亡ぼす』(海竜社)をご覧ください。憲法を改正しても軍国主義にはなりません。日本はバランスのとれた国だけども、安全保障、防衛に関してだけは大きな穴が空いている。その穴を埋める作業が憲法改正なのです。
遠藤 価値観というキーワードが出てきましたので、手嶋さんにお伺いしたいと思います。日本とアメリカは自由と民主主義という価値観では一致しているのですが、平和主義や軍事に対する考え方では不一致の部分がある。このことに関するお考えがありましたらお願いします。
手嶋 日米は自由と民主主義について、果たして本当に価値観を共有しているのでしょうか。まさしくこの点について、アメリカの知日派からはいま、疑念の目が向けられています。自民党総裁の安倍晋三さんは、民主党政権の対外政策を「外交敗北」と厳しく批判し、日米同盟を再び強化することで、中国、韓国、北朝鮮に対して毅然として立ち向かうべきだと主張しています。安倍さん本人は心からそう思っているのでしょう。そうした主張の拠り所である日米同盟を成り立たせている基盤、自由や民主主義という共通の価値観を本当に分かち合っているのか、というところで知日派は疑念を拭いきれずにいます。
 一番わかりやすい例を挙げてみましょう。知日派の代表格と言っていいリチャード・アーミテージ元国務副長官は、同盟国である日本の行く末を心から気にかけています。そのアーミテージ氏でさえ、「従軍慰安婦問題で強制性があったかどうか」という問題を提起する安倍さんのについて、表情を歪めて「やめたほうがいい」と直言するのを聞いたことがあります。誤解のないようにお断りしておきます。個々の歴史的事実については、私も韓国や中国の主張を認めているわけではありません。しかし、こうした論争を現実の外交の舞台に置いた時、まったく異なる意味合いを持ってきます。日米同盟を引き裂く起爆剤となる怖れがあることも冷静に見ておくべきでしょう。アーミテージ元国務副長官が「従軍慰安婦は今の価値観ではほとんどレイプに近いものだと見なさざるをえない」と言っています。日本の保守派が慰安婦には強制性がないと言うと、首を横に振ることになります。中国や韓国はこれを捉えて「反ファシズム戦争を共に闘った者同士で連携を」と持ちかけてきます。
 アメリカの大統領は、日米が自由と民主主義という価値観を分かち合っているが故に、有事の際、日本の領域を守るために、海兵隊の若者に死地に赴くように命じるのです。その前提に疑義が生じてしまえば、同盟はじつに脆いものになってしまいます。日米同盟に最も心を寄せている人々がは、まさにこの点に心を痛めて、安倍発言を見守っています。
古森 私の考察は少し違います。今のアメリカで広まっている所謂慰安婦問題の認識は、日本の軍、あるいは政府当局が組織的に公式に政策として、女性を連行してきてしまったというところから始まるわけです。しかしこれは事実ではない。そんなことを軍や政府が政策としてやったという事実はありません。しかし、それを政府当局がやったという誤った認識で、この間の議会では日本批判決議が出てきたのです。
 だから今、日米同盟を重視してくれる知日派の人たちも、おそらく半分以上はそういう誤った認識をしていて、「歴史の修正主義はやめてくれ」という意見だと思います。しかしそうではない人たちもいます。下院議会の公聴会ではクリス・スミスという有力な下院議員が、「中国は日本の八十年前、七十年前のことをあたかも今起きたようなことにして主張し続けている。これに騙されてはならない」と言ってくれています。ですから、基本的な事実関係をもう一度アメリカ側に提示していくことは可能だし、必要だと思います。
手嶋 小泉内閣の時代、日中関係は靖国神社参拝によって五年間ほど首脳会談が開かれない態が続きました。安倍晋三さんが総理になった時に電撃的に訪中して、日中関係はようやく安定軌道に乗りました。水面下で中国側の戴秉国と谷内正太郎事務次官が一年間にわたって厳しい交渉を行いました。「靖国神社を公式参拝せず」いう一札を差し出せと中国側は迫ってきました。靖国神社参拝には、外交当局の立場からは異論があったのでしょうが、中国側に言われて一札を差し出すのは不見識です。だから谷内次官は中国の要求を徹底して拒んだのでした。最後は中国側が折れて、日本は靖国参拝については口頭での約束すら拒んで、日中間の電撃的な関係調整を実現したのです日本が凛とした姿勢を貫けば、中国側も折れてくることが分かるでしょう。
 ところが、安倍さんは結果的には総理として靖国神社に参拝しなかった。中国側は一年間におよぶ日中交渉の中で、安倍さんが結果的に靖国神社に参拝しないというところに賭けたのだと思います。先ほどは戦前のアメリカの外交力というお話がありましたが、戴秉国という人の外交力はそれに匹敵する切れ味でした。
 総裁選挙を控えて、安倍さんは「本当は参拝するつもりだった」と総理時代に触れています。当時の安倍総理は事実として参拝しなかったのです。にもかかわらず、「本当は―」などと発言するのは賢明とはいえません。今度総理に返り咲いた時には靖国神社に参拝するでしょうか。参拝カードを切った時に何が起こるか、それを詳細に分析して、日中関係の近未来を予測しておかなければなりません。まさしく「官邸のインテリジェンス・サイクル」を粛々と回さなければならないのですが、日本版国家安全保障会議なきいまの官邸に外務省を統御できる外交力が十分に備わっているのかどうか、心もとないといわなければなりません。
遠藤 今のご指摘はつまり安倍さんがリアリズムをどう体現していくかということだろうと思います。次は澤田さんにお話いただきたいのですが、外交におけるリアリズムというものを日本の先達たちはどう考え、あるいは体現してきたのでしょうか。
澤田 日露戦争前、ロシアは満洲に南進してきました。小村寿太郎外務大臣、徳富蘇峰というジャーナリストが桂太郎首相のブレーン的な存在でしたので、桂首相に協力しました。その当時の指導者は、国際政治というのは究極的には軍事力、力が物を言う社会であるということをよく理解していましたので、ロシアが力で出てきたらこっちも力で対抗してバランスをとって平和を守るという考え方でした。
 徳富蘇峰はジャーナリストでありながらそれをよく理解していましたから、自らイギリスまで出掛けて日英同盟ができる五年前から同盟工作をやっています。イギリスのジャーナリストに「同盟を組まないか」と呼びかけているのです。さらにロシアに行って将来の敵国を観察しています。そしてロシアのサンクトペテルブルクから南に下りてトルコ、ルーマニア、ハンガリーまで行っています。ルーマニアでは国王夫妻に会って「日本の皇室といい関係を築いた方がいい」と呼びかけていますし、ハンガリーでは反ロシアのジャーナリストと接触して交流を深めたりしています。蘇峰自身の言葉で言うと「反ロシア包囲網を作る」ということです。バランス・オブ・パワーですから、まずはイギリスとアメリカを日本側に抱き込んで力のバランスをとってロシアを封じ込める。さらにロシアの周辺国を抱き込んでロシアの包囲網を作る。
 桂と小村も同じ考えだったと思います。あの時代の指導者はそういうことを計算していたのです。彼らは基本的には頼る国がない。今みたいに、いざとなったらアメリカに頼ればいいという意識が全くありません。だから死にもの狂いで、自分の国のサバイバルを考えていたのです。だからこそ、新聞社の社長が自らヨーロッパに行って工作をしたのです。もちろんそれは蘇峰の力だけではなく、大隈重信外務大臣が援助していました。陸軍では大山巌陸軍大臣が、参謀本部では川上操六中将が支援しています。現地に行った時には加藤高明駐英公使や青木周蔵駐独公使が応援しています。また、柴五郎や八代六郎という陸軍、海軍の諜報将校も参加して、工作を行っていました。
 桂にしても小村にしても蘇峰にしても、バランス・オブ・パワーとか勢力均衡とか地政学とかインテリジェンスという言葉は知らなかったはずです。言葉は知らないのですが、それを実践していた。日本人にはそういう底力があります。ここ十五年ぐらいの間に北朝鮮や中国が存分に実物教育をしてくれましたので、日本人はかなり目覚めてきていると思います。だからこれからの日本は変わっていくと思います。

新渡戸稲造と拓殖大学

遠藤 そう思いたいものです。最後に草原先生から新渡戸稲造について締めくくっていただきたいと思います。新渡戸は拓殖大学と深い関わりがありますので、その点についてもお話いただきたいと思います。
草原 新渡戸稲造は非常に多面的な活躍をしました人物です。この人物を一言で表現するのは難しいのですが、あえて一言で言うと偉大な国際人であったという評価になるのではないかと思います。
 では何が新渡戸を国際人にしたのか、何をもって国際人と呼ぶのかということについて、私は四点ほど挙げてみます。一つ目は、彼は受信と発信の両方を行ったということです。外国のことを勉強して、それを国内に紹介する人は大勢います。しかし、日本のこと、日本の主張を外に向かって発信した人は非常に少ない。当時、日本のことを本で世界に発信したのは岡倉天心と内村鑑三、それから新渡戸稲造です。受信と発信の両方を様々な分野にわたって行った。これについては新渡戸稲造の右に出る者はいないと思います。発信と言うと『武士道』という書物を思い浮かべます。あるいは彼の流暢な英語のことを思い浮かべる人も多いでしょう。しかし彼の発信力というのは、実は言語だけではありません。彼の行い、彼の存在自体が周囲の人に素晴らしい影響を与えているというところを見逃してはいけないのです。彼に接することによって、彼を通じて日本人に対する尊敬の念を抱くようになった人たちも多い。相手からも信頼されるような発信をしていくのが新渡戸稲造なのです。
 それから二つ目。よく彼は国際人と言われますが、実は大変な愛国者でありました。このことが戦後の新渡戸に関する話の中にあまり出てこないというのは不思議です。新渡戸は天皇を崇拝していましたし、何よりも国益を優先して考える愛国者でした。彼は愛国という言葉と同時に憂国という言葉も好んで使いました。祖国のために尽くすという観念の強い人だったのです。それでいて世界全体のことも考える国際的な心も持ち合わせていた。愛国心と国際心を持ち合わせているというところに、国際人としての大事な資格があるのだと思います。
 それから理想と現実という視点から見ると、新渡戸は二十歳の頃に「我太平洋の橋とならん。西洋、東洋の架け橋となって世界の相互理解、平和のために尽くそう」という高い理想を持っていました。しかし理想というのは、いくらそれだけを追っていても結果としては空想に終わってしまう。彼も色々な理想を考えながら悩むのです。そして悩んだ末に辿りついたのがカーライルという人の「いくら理屈で考えていても駄目だ。実行して初めて意味があるのだ」という言葉です。この言葉に出会って、知識も大事だけども、それよりも実行することの方が大事だと気付く。いきなり高い理想に飛びつくのではなくて、理想を持ちながらも一番手近な義務を果たす、ここからスタートすることで自分の生きる道を見出だした。つまり、理想を追いながらも現実を忘れない、現実の中に理想を見失わないという姿勢があったのです。
 それから三つ目。彼は物事を一段高い所から眺めて全体を俯瞰する力を持っていた。一つの例として国際連盟に対する見方を挙げます。満洲事変の後、日本国内では「国際連盟から脱退してしまえ」という世論がマスコミの煽りによって湧き上がってくる。しかし新渡戸は連盟から脱退することに反対でした。結果的に日本は連盟から脱退しますが、新渡戸はその脱退を決して批判してない。むしろ支持するような発言をしています。その理由として連盟が過ちを犯したからと言います。国際連盟は現実の平和を確保することよりも、実際に適用できない理論を持ち出して、それにこだわったために満洲事変を解決できなかった。国際連盟はその後の国際紛争も解決できず結局崩壊してしまいます。同時に「日本も間違っている」とも言います。日本は国債連盟に日本の立場を外国に伝えることに失敗した。実に公平なバランスのとれた見方です。
 四つ目。亡くなる二ヶ月前ですが、カナダのバンフで太平洋会議が開かれ、新渡戸は日本代表として出席します。その時、「最近気になることが二つある。一つは列強が寛容さを失ってきている。これは大変危険である」と言っています。それから「列強の中で経済的な需給体制を作り上げるという傾向が強くなっている。こういう傾向が強くなると、どの国も、日本も含めて需給体制を作るために努めざるを得なくなる。そういうことが起こってくると、おそらく将来人類にとって大変な災害を招くことになるだろう」とも言っています。そしてこの演説から六年後に第二次大戦が始まります。さらにその二年後に日米開戦を迎える。日本だけが悪いと考えるのではなく世界全体を考えてどこに問題があるかを指摘し、お互いに話し合いを通じて解決の道を探る努力をした。
 新渡戸は一九一七年から五年間、拓殖大学の学官を勤めていました。実質的には二年間でした。その時に卒業式でこういう訓示を与えています。一言でいえば「個人として強かれ」。七十二名の卒業生は外国へ行く人ばかりです。そういう卒業生に対して「君たちはこれから外地へ行って仕事をすることになる。色々風俗習慣も違う。戸惑うこともあるけれども、基本は郷に入れば郷に従えである。ただし、時にはそれに反抗する必要がある。風俗習慣の中にはどう考えても良くないものがあるだろう。そういう悪い風俗習慣に染まってはいけない。何が良くて何が悪いかはあなたが判断しなさい。そういう判断ができる人を育てるためにこの拓殖大学はある」と言って締め括っています。九十年近く前の訓示ですが、今年大学を卒業する学生に呼びかけてもそのまま通用する、むしろ当時以上に現実感を持って受け入れてもらえる素晴らしい訓示だと思います。
遠藤 本当に色々な論点が出ました。パネリストの皆さん、本当にどうもありがとうございました。

※拓殖大学日本文化研究所秋のシンポジウム(十一月十四日)を再構成したものです。

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