手嶋龍一

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対中情報戦をめぐる富坂聰さんとの対談(週刊現代)

手嶋 尖閣諸島を巡る日本政府の対応を見ていると、習いたての碁を打つ小学生のようですね。何の戦略もなく、ただ思いつきで碁盤に石を置いている。外交は時によく碁にたとえられますが、相手の打ち方や癖も分からないまま、その場限りでひどい手を打っている。しかし、当の野田政権には、定石から外れているという自覚がないのですから、救いようはありません。

富坂 まったく同感です。昔から日本は、相手国の反応を予測する、自分たちの行動が世界からどう見られているかを考えるといった、大局的な視点に立った外交が苦手でしたが、今回はそれが如実に現れましたね。いまの日本政府は「こう行動すれば中国がどう反応するか」ということを考えなさすぎです。

手嶋 中国の出方を予測する良質な判断材料がないのです。膨大な一般情報を収集・分析し、事態の本質を示す貴重な情報を見つけ出す。こうした「インテリジェンス・サイクル」がまったく機能していない。それでは対日攻勢を強める中国には太刀打ちできません。後世の歴史家は「冷戦終結後の東アジアで、尖閣諸島を巡る攻防が日中関係の転換点になった」と記述することになるでしょう。

富坂 情報分析の欠如という点で一例を挙げれば、尖閣国有化について、「国有化」という言葉が中国でどう受け止められるのか、十分な分析がありませんでした。日本は国有化について、あれこれと説明をつけて中国側に理解してもらおうと試みた。たしかに中国の政治家や官僚はそれで納得するかもしれない。しかし、中国の人民にはそんな説明は通用しませんよ。
 中国の人たちが日常生活のなかで日本について考える時間なんて、ほんのわずかです。日本の説明なんていちいち聞いている暇もない。彼らの頭に入ってくるのは「釣魚島」と「日本の国有化=侵略」というキーワードだけ。この二つの言葉しか入ってこないのですから、怒り狂うのも当然なのです。対中外交では、中国人民を起こしてはならないというセオリーがあるのに、それを犯してしまった。

手嶋 「国有化」のひとことが燃え盛る民衆のマグマにさらなるガソリンを注いでしまった。インテリジェンスは近未来を読み解く業なのですが、野田政権にインテリジェンス感覚が備わっていれば、いま「国有化」というカードを切れば、中国で大規模な反日暴動を招くことぐらい分かったはずです。

富坂 そして、中国国内で起こった暴動をすべて一緒くたに捉えている点も、日本の情報分析力の欠如を現しています。
このたびは中国各地で暴動が起こりましたが、大体は各省につきひとつの都市で暴動が起こっています。ところが、広東省だけは深圳、東莞、広州など複数の都市で大規模暴動が起き、ここだけ鎮圧のために催涙弾が使われた。一方、過去日本の租借地だったこともある大連では大きな暴動が起きていない。
中国国内でも、地域によって対日感情に温度差があるのです。これをしっかりと分析すれば、企業進出の際のチャイナリスクを軽減できるのですが、それを分析しようとする姿勢が日本には見られません。

手嶋 「鋭い牙がないなら、長い耳を持て」。日本が核兵器や空母を持たないのなら、情報収集・分析の機能を強めなければいけません。とりわけ中国には長い耳をじっと傾ける必要があるのに、主要国で対外情報機関を持っていないのは日本だけ。さらに現地で情報の収集を担っているのは外務省だけというのが現状です。
日本には国際水準を凌ぐ中国専門家がいます。でも彼らは常に中国にいるわけじゃない。政府もその知見を生かしていない。ぎりぎりのグレーゾーンで行動し生の情報に接する情報専門家を養成し、現地に確かな情報源を築くべきです。

富坂 一方の中国は、外交部にはじまり、外交学会、社会科学院、中聯部、国際戦略研究所など、対日外交を担当する組織が「表」だけでも7つ、8つとある。こうした組織が競うようにして日本の政治家を中国に招待して、少しずつ少しずつ日本の情報を吸い上げ続けてきたわけです。そうした蓄積があるから、日本の政治家がなにを嫌がるのか、日本を対外的に孤立させるにはどうすればいいのかをよく分かっている。

手嶋 今年5月、「李春光スパイ事件」が明るみにでました。中国が日本の弱点をどれほど適確に掴んでいるかを物語る出来事でした。人民解放軍に籍を置くこの中国人スパイは、なんと農業分野を工作のターゲットにしていたのです。日本がアメリカ主導のTPPに参加するのを何としても阻みたいと中国は考えたのでしょう。
そこで李春光一等書記官は、TPP反対の急先鋒だった農水省と農水族議員に目をつけ、言葉巧みに囁いたのです。
「日本がTPPに参加しないのなら、数年後に中国が食糧危機に陥ったときに、日本から100万トンの日本産米を輸入することを約束してもいい」
これは日米の分断策としてまったく秀逸な対日情報工作だったといっていい。

富坂 米は農水省の「核心」ですからね。中国が日本の米を買ってくれるなら、中国の提案にのろうという気運も生まれる。日本が一番弱いところを熟知して、それを材料にして自分たちの有利になるように交渉を進めようとする点は、実に巧妙です。日本も中国国内で分断工作を行え、というつもりはありませんが、中国国民に直接日本の主張を訴える「統一戦線」をつくる努力くらいは見せてもらいたいものです。
 今回の尖閣衝突を機に、対中情報戦略の練り直しが必要です。しかし、結局は尖閣問題も国内の政局の材料にされて、消化されようとしています。日本で外交問題や領土問題が浮上すると、必ずそれが政局に利用されたり、小さな問題にすり替えられたりしてしまい、建設的な外交議論が行われることがない。これが日本の病理ではないでしょうか。

手嶋 その通りですね。領土問題は指導者の器量を推し量る重要テーマです。にもかかわらず、最近の日本の指導者は、誰も領土問題でリーダーシップを発揮しようとしませんでした。
 思い出されるのは東西ドイツの統一に際して宰相だったヘルムート・コール氏の姿勢です。ベルリンの壁が崩れたとき、第二次大戦後にドイツとポーランドの間に引かれた「オーデル・ナイセ線」の扱いが焦点となりました。このオーデル・ナイセ線によって、対ポーランド国境は大きく西側に寄せられ、数百万人ともいわれるドイツ人が故郷を失っていたからです。

富坂 北方領土と同じような悲劇が生まれたわけですね。

手嶋 そうです。そして東西ドイツが統一される時、この国境を東に動かすべきか否かをめぐって、ドイツ国内の世論が沸騰しました。とりわけ右派の政治勢力は執拗に「失われた国土の回復」を叫んだのです。しかし、コール首相はオーデル・ナイセ線に手をつけようとはしなかった。ドイツのナショナリストは烈しく抗いましたが、コール首相はこれに怯みませんでした。ここでオーデル・ナイセ線を東に動かしていれば、ドイツは周辺諸国と摩擦を生じ、NATO同盟にとどまれなかったかも知れません。まさしく統一ドイツの勝負の分かれ目だったのです。

富坂 ドイツにとっての真の国益を考えて、感情的な議論には乗っからなかった、と。日中両国にコール首相のようなリーダーがいれば、と思いますが、どちらも国内の声に押し負かされてしまう指導者が目立ちます。

手嶋 そう、尖閣問題では、野田総理は、国内の政局ばかりに眼を奪われていました。尖閣買い取りで政局の主導権を握ろうとした石原都知事の動きに怯え、維新の会を率いる橋下大阪市長の西風に煽られ、追い詰められるように「国有化」のカードを切ってしまった。総選挙を控えて、有権者から「野田内閣は頼りにならない」と見捨てられたくなかったばかりに、確たる対中戦略もないまま尖閣の国有化に踏み切ったのです。国有化をせずに中国を刺激すべきではなかったなどと言っているのではありません。決定的な外交カードを切るなら周到な備えの上でと言っているのです。

富坂 外のレーンから中国や諸外国が日本を追い抜いているのに、日本の政治家はそのことに気付かず、小さな集団の中で他の政治家に追い抜かれまいと腐心している、ということですね。

手嶋 日本の国境線が縮み始めているというのに、まったくのんきなものです。

富坂 一方の中国は、尖閣を利用したとんでもない情報戦を日本に仕掛けてきているように思えます。それは「日本が再びファシズム国家になった」というレッテルを貼る、という手です。
 9月19日、パネッタ米国防長官と面会した習近平副主席は、尖閣問題に触れると同時に「世界反ファシズム戦争の勝利の成果を否定し、戦後国際秩序に挑戦しようと企む日本の行為を国際社会は断じて許すわけにいかない」と訴えました。これは強烈なメッセージです。

手嶋 「私たち米中両国は第二次大戦では、対ファシズム戦争をともに戦った同志だったじゃないか」と、アメリカに呼びかけた。

富坂 続く9月27日の国連総会での演説の場でも、中国の楊潔篪(よう・けつち)外相が「日本の尖閣国有化は、反ファシズム戦争の勝利に対する公然たる否定だ」とアピールしました。日本からすれば「とんでもない」という話ですが、ファシズムという言葉に国際社会は敏感に反応しますから、つい中国の言い分を聞いてしまう。

手嶋 これはアメリカを動揺させるじつに巧妙な戦略と言っていい。中国が尖閣諸島に軍事力で威嚇すれば、米大統領は沖縄に駐留する海兵隊を派遣して日本防衛の義務を果たすでしょう。安保条約の第5条を拠り所とするだけではなく、日本こそ民主主義の牙城だからです。「アメリカと日本は自由と民主主義という、共通の価値観を分かち合う国家であり、その普遍的な価値を守るための戦いなんだ」という大義があればこそ、大統領は自国の若い兵士に死地に赴くよう命じることができるのです。ところが、中国の「日本はファシズム国家だ」とアメリカに囁きかけ、「ファシストの戦いに加担するのか」と宣伝戦を繰り広げています。
 そしていま、次期総理の候補のひとり、自民党の安倍晋三総裁が、従軍慰安婦問題や南京虐殺について積極的に発言している。日本の同盟国アメリカは、眉をひそめています。中国の「ファシズム回帰」キャンペーンを利する言動だと受け取っているからです。

富坂 大げさではなく、中国は「日本ファシズム化」の布石を次々と打っている。9月下旬、中国はワシントン・ポスト紙、ニューヨーク・タイムズ紙に「釣魚島は中国のもの」という意見広告を出しました。事情を知らないアメリカ国民が見れば、信じ込むでしょう。冒頭の碁に例えるなら、中国は即効性はないが、のちのち勝負の要となるところに石を置いているのです。

手嶋 ここで誤解のないように言っておきますが、私たちは従軍慰安婦などの問題で日本の研究者らが精緻な調査・研究を進めている努力を多としています。その一方で、国際政治の舞台では、地道な研究結果にはなかなか耳を傾けてもらえないのも実情です。中国が「レイプ」「虐殺」という言葉を使えば、国際社会はどうしてもそちらに反応してしまう。安倍氏の言動は、共通の価値を分かち合う同盟国アメリカの気持ちを冷めたものにし、日米同盟を結果的に弱体化させる危険をはらんでいます。

富坂 そうですね。日本が正しいかどうかではなく「日本が弱っているなら弱らせておいて、獲れるものを奪ってしまおう」という周辺国も出てくるでしょう。
安倍氏もいまの姿勢を貫くなら、「南京虐殺も慰安婦も否定し始めた日本はファシズム国家だ!」と中国が発言し、これに乗じて日本叩きをはじめる国が出てくることを考えておかなければならない。そのそろばん勘定ができているのでしょうか。

手嶋 アメリカきっての「知日派」アーミテージ元米国務副長官は、慰安婦問題で日本に厳しい姿勢を示しています。これはアメリカが日本を支えようにも、日本が次々と敵を増やしてしまうのではないかと不安だからです。
 米中はいま、東アジアの海を舞台に「21世紀のグレートゲーム」を戦っています。アメリカにとって日本はかけがえのない同盟国なのですが、あまりにまずい手を打ち続ける日本をアメリカは持てあましています。

富坂 一方で中国は、今回の尖閣衝突を、対米戦略のシミュレーションとして利用しています。「こちらがこう動けば、アメリカはこう出てくるのか」と、情報を蓄積しているのです。外交敗戦という4文字が、日に日に色濃くなっている。そのことに日本の指導者たちが早く気付かなければならないのです。


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