「時代を切り拓く青春群像」
第二回 挑むひとの若き日
世界最大のオフィス・ビル――。ペンタゴンはいまそう呼ばれている。五層にして五角形の建物には五万人を超える軍人や文官が働いているからだ。たしかに単一の組織では世界でも有数の規模なのだろう。ロナルド・レーガンがアメリカ大統領だった頃、初めてワシントン特派員として赴任し、ここに毎日のように通っていた。とてつもなくでかい建造物だった。三階部分には国防長官室、陸、海、空、海兵の四軍を率いる統合参謀本部があり、われわれジャーナリストのプレス・ルームも連なっていた。超大国を守る巨城には地下鉄の駅もスーパー・マーケットもあった。早朝の五時すぎから人々が続々と登庁し、飛行場のように広々としていた駐車場がたちまち埋め尽くされていく。それは精巧にして複雑なマシーン、整然として混沌たる生命体だった。これほどの組織をまとめあげ、率いていく人物などいるのだろうか――。ペンタゴンに足を踏み入れる度にそう考え込んでしまうのだった。
この魔物を思わせる建物に史上最年少の国防長官として乗り込み、四半世紀の後に最年長の国防長官として再び戻ってきた人がいる。シカゴからやってきた実業家、ドナルド・ラムズフェルドだ。イラク戦争にアメリカのブッシュ政権を引きずり込み、その采配に異を唱える将軍たちの首を次々に切っていったと悪評を浴びせられた国防長官である。だがこの人と身近に接した者として、世評と素顔の間にこれほどの落差がある人物はめったにいないだろう。それほどにラムズフェルド像は名声と悪罵の狭間を揺れ動いている。そうしたなかで本人が自伝『真珠湾からバクダッドへ―ラムズフェルド回想録―』(幻冬舎)を著した。いまなお国民的人気を誇るコーリン・パウエル元国務長官や才女の誉れ高いコンドリーザ・ライス元国家安全保障担当大統領補佐官の人物評では辛辣な見立てを披露して波紋を引き起こしている。国防のプロフェッショナルにして権力の街の住人だったラムズフェルド自身の評価も、やはり棺を覆うて定まるのだろう。
それにしても破天荒な人物だった。国際テロ組織アルカイダのテロリストが、民間の旅客機を乗っ取って世界貿易ビルに自爆攻撃を仕掛けた直後、三機目のハイジャック機がペンタゴンが聳え建つポトマックの河畔を目指していた。ラムズフェルド国防長官は「ニューヨークがやられた」という急報を受けて、長官室に幕僚たちを急遽集めて会議を主宰していた。そのとき、大地を揺るがすような轟音が響き渡り、褐色砂岩の建物が、そして大きな窓ガラスが小刻みに震えた。居並ぶ将星たちは一斉に窓の外の様子を窺い、揃って視線をラムズフェルド長官に戻した。長官の椅子はすでに空だった。爆発音を耳にするや全力で駆けだしていた。七十歳を超えていた国防長官を、鍛え抜かれた体躯を制服に包んだ若い補佐官たちが追いかけていく。
自爆機に体当たり攻撃を受けて炎上する現場に駆けつけたドナルド・ラムズフェルドは、担架が現場に到着するのを待ちかねて、負傷者を自ら背負って医務室に運ぼうとしていた。そして担架が持ち込まれると自ら担って医務室と被災現場を往復したのである。
「長官、わが領域の上空にはハイジャック機が旋回しているという情報も入ってきています。裁可していただく案件が山積しています。どうか長官室にお戻りください」
補佐官たちは必死で説き続けた。首都ワシントンに狙いを定めて核攻撃が計画されているという未確認情報も入っていたからだ。だが現場にいては長官の身に危険が及ぶと持ちかけても耳を貸そうとしまいと補佐官は心得ていたのである。
「非常のときには、一隅を守るに限る。俺はかつて担架で怪我人運びのプロフェッショナルだったからな」
ラムズフェルド長官は後にこう述懐している。プリンストン大学では157ポンド級のレスリング選手として伝説的な存在だった。この階級ではコーネル大学のケント・ハントが不敗を誇って覇者として君臨していた。王者に挑んだのはラムズフェルドだった。彼の武器である「ファイヤーマン・キャリー」はいまも語り草になっている。相手が一瞬視線をそらせた隙に足と腕を鷲づかみにし、火のなかに突き進む消防士のように敵を持ちあげ、リングに投げつける。優勝決定戦には敗れたのだが、王者ハントはこの試合を機にリングを去っていった。9・11同時多発テロ事件に遭遇するや、劫火に突き進んでいく消防士の闘志が彼のなかに蘇ったのだろう。重傷を負った部下を自ら背負う国防長官の後ろ姿がペンタゴンで働く者たちの心を掴んでしまった。ラムズフェルドが対テロ戦争の揺るぎなき指導者となったのはこの時からである。
いま手元に一通の手紙が残っている。地元のシカゴからわざわざワシントン支局にインタビューに駆けつけてくれたお礼差し上げた手紙に、ラムズフェルド氏から心のこもった文面で返事をもらった。クリントン民主党政権の時代だから、彼はすでに「忘れられた国防長官」だった。本人も祖国が再び自分を必要とする時がこようとは思っていなかったはずだ。「超大国が軍事力の行使を許されるのはいかなる時なのか」。筆者の問いかけに対するラムズフェルド氏の答えは、驚嘆すべきものだった。ペンタゴンを率いていたのは遥か以前のことなのだが、眼前のひとの見解は現役長官のそれだった。アメリカの国防政策のいまに通じていた。国家が自分を必要とする日を期して、自己研鑚を怠らないひとがそこにいた。それゆえ、ドナルド・ラムズフェルドが、最年長の国防長官として再びペンタゴンの長官室に入ったその日から、巨大なマシーンをフル稼働させることができたのだろう。長官室に立ったまま書類を決裁できる机を設えさせ、ときに十数時間も立ちつくして決断を下していった。「ラムズフェルド・メモ」はペンタゴンのあらゆる部署を駆け巡って組織を生き生きとさせた。知らないことがいかに多いかを自覚せよ――彼は自分にそう言い聞かせ続けたという。日本の総理は「無知の知」を持ちだして防衛相を庇っているが、彼我の落差に恐怖心すら覚えてしまう。