手嶋龍一

手嶋龍一

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著作アーカイブ

「ある宗教者との対話」

苔寺の若者

 「あなたの人生で宗教家と向き合って過ごした時間がありますか――」
 アメリカの首都ワシントンD.C.から統一ドイツの暫定首都ボン、再びワシントンD.C.と続いた海外特派員暮らしにようやく区切りをつけて、久々に日本に戻ってきて間もなくのことだった。秋も深まった京都・嵯峨野の古刹を訪ねた折、苔の庭に静かに見入っていた若者から突然問いかけられた。社会人になったばかりで、様々な悩みを抱えていたのだろう。唐突な質問に一瞬戸惑いを覚えたのだが、思い切って「ええ」と頷いた。ひとりの宗教家の顔が脳裏に浮かんだからだ。 
 ブライアン・ヘア。そのひとは、アメリカ東部の大学街ケンブリッジに建つセント・ポールというカトリック教会の司祭だった。だが宗教家として接した時間はほんのわずかであった。このひとは現職のカトリック司祭として教区に多くの信者を抱えながら、ハーヴァード大学の教壇に立って国際政治を講じていた。より正確に言うなら、ブライアン・ヘア教授はハーヴァード大学神学部に所属して神学を講じながら、同時にハーヴァード大学のCFIA・国際問題研究所にも籍を置いて、危機の国際政局に臨む指導者のあり方を論じていた。僕はCFIAで指導を受けた不肖の教え子だった。教授に師事することになったのは一夜の催しがきっかけだった。

知の共和国に新たな血を

 僕がこの大学街にやってきたのは、冷戦が終わって数年が経った一九九〇年代の半ばのことだった。米ソの冷戦が幕を閉じようとしていた時、同盟国である日米の水面下で険しい対立が持ちあがった。日本の次期支援戦闘機・FSXの研究・開発をめぐって、東京は自主開発を、ワシントンは米国製戦闘機の購入を求めて、双方の軋みが増していった。冷戦下では考えられなかった日米の衝突が持ちあがったのである。後に「日米FSX戦争」と呼ばれた暗闘であった。この事件を一冊のノンフィクションにまとめて出版したのだが、米国内で海賊版の翻訳が出回った。この著作にハーヴァード大学の国際的な研究機関であるCFIA・国際問題研究所が関心を示し、フェローとして招聘してくれたのだった。
 クインシー通りをはさんで、ハーヴァード・ヤードの向かい側に古風な煉瓦づくりの建物があった。蝶ネクタイにツイードの上着といった、古風なスタイルの教授たちがコーヒー・カップを傾けながら議論を交わす「ファカルティ・クラブ」である。その夜、世界の様々な国々からその年に招いた十数人のフェローたちを歓迎する晩餐会がここで催された。フェローの顔ぶれはじつに多彩だった。
 熾烈な麻薬戦争が続くコロンビアでマフィアとの戦争を指揮してきた国防相。北朝鮮の核問題を話し合う六カ国協議の代表から後に外相となる韓国の外交官。タミール紛争が続くスリランカの大統領に仕え、後に法相となった補佐官。スペインの有力新聞のオーナーにして国王の親友。黒人が初めて選挙に参加してマンデラ政権を誕生させた南アフリカの国連大使。いずれも安全保障の分野で豊かな経験を積んできた人材を世界の第一線から大学に迎えて、自由な研究の場を提供し、アカデミズムの側も彼らの新しい血を存分に取り入れて、国際社会の最新の課題を肌で感じようと言うのだ。

僧衣のひと

 フェローの歓迎ディナーのゲスト・スピーカーをつとめたのがブライアン・ヘア教授だった。当時、ホワイトハウスの主だったビル・クリントン大統領は、冷たい戦争が終わった安心感からか、安易に軍事力の行使に走りがちだった。通常兵器の引き金に手をかけても、超大国ロシアとの核戦争を招いてしまう怖れが消えたからだろう。宗教者でありながら国際政治学者でもあるブライアン・ヘア教授が、現代のアメリカ外交をどう見ているのかを知りたかった。とりわけ、軍事独裁政権の支配が続いたハイチの政情が不安定となり、クリントン政権が武力侵攻に向けて秒読みに入っていた。それだけに黒い僧衣を身にまとった国際政治学者が何を語るか、列席した人々はじっと聞き入った。
 「東西冷戦が終結したからといって、世界がただちに平和になったわけではない」
 ブライアン・ヘア教授は、穏やかな、しかしきっぱりとした口調でこう話し始めた。
 「アメリカは冷戦後も国際秩序の維持に重大な責任を負っている。それだけにときには軍事力で介入する政策も外交・安全保障上の選択肢とはなりうる。だが、アメリカは武力の行使にあたって、きわめて厳格な自己省察を積み重ねなければならない。安易に武器に手をかけるようなことがあってはならない」
 ヘア教授はこう述べて、武力をもって外国の領土に侵攻するには「十分すぎるほどの正当な大義がなければならない」と、クリントン政権の安易な武力行使をたしなめた。宗教者の高い倫理観を内に秘めつつ、国際政治学者として、知の限りを尽くしていまの世界を読み解いていった。その姿勢が「知の共和国」に新たに迎えられた我々の心をつかんで離さなかった。
 超大国アメリカはいかなる条件のもとなら力の行使を許されるのか――。このテーマに挑んでみたいと、僧服の教授に指導をお願いしたところ、快く受けてくださった。こうしてブライアン・ヘア教授に師事することになった。

核の刃とステンドグラス

 国際問題研究所でのゼミを終えると、ヘア教授のお伴をして、ハーヴァード・ヤードを抜け、セント・ポール教会が建つケンブリッジの街中に向かうのが日課となった。あるとき黒衣の人は長い眉毛を指で弄びながら、傍らの僕を見てこう打ち明けた。
 「ハーヴァード・ヤードでは、核の剣が降りかかってくる国際政治の世界を論じているのだが、実はわが教会では古びたステンドグラスがいまにも落ちてきそうでね。信者の頭に落下しでもしたら、とびくびくしながら日曜日のミサに臨んでいる。とはいえ教会の懐具合がね、修繕費のやり繰りがどうにもつかない」
 我々教え子もそうした事情を薄々察していたので、クリスマスのミサには揃って出かけていった。そして基金箱にそっとドル札を寄付したのだった。カトリック信者は数えるほど、ほとんどがプロテスタント、ブディスト、ムスリムだった。
 ブライアン・へア司祭のミサは街の人気だった。その年のクリスマスの説教に何をとりあげたのか、信者だけでなく、街の人々の話題になった。その年も、ボスニアやルワンダで流血が絶えなかった。そうした一年を振り返ってクリスマス・ミサの聴衆にこう語りかけた。
 「イエスはわれわれの願いを容れてこの地上に来られたのではない。自ら進んでみえたのだ」
 流血の時代を生きるわれらもまた、冷戦後の新たな国際秩序を創造するため、ひとりひとりが身を挺して取り組まなければならない―。説教はいつしか現下の国際情勢の精緻な分析となり、見た目にも信者ではない参会者たちがメモをとっていた。

二つの世界を生き抜く者

 この人の講義が、そして説教が、これほどの人気を集めていた秘訣は、巧みな説得力と卓抜な警句にあった。
 「国際政治の研究者とは、熾烈な競争を生き抜かなければならない銀幕のスターのようなものだ。サイレントの時代は去り、トーキーの時代が幕を開けてみると、一世を風靡したスターたちはあらかた姿を消していた。生き残ったのはほんのひと握りだった」
 白い襟が輝く黒の僧服に身を包んだそのひとは、、聴衆をゆったりと見まわし、静かに後ずさりながらこんなしゃれたコメントを放つ。そして教壇にひょいと腰掛け、黒い靴下をまず右、ついで左と引っぱりあげ、絶妙の間をとって次の警句を吐くのである。
 だが、この人の真髄は、より深いところにある。現代が抱える難問に果敢に挑んで一歩も怯まぬその姿勢だ。2001年、同時多発テロ事件に衝撃を受けたブッシュ政権は、アフガンからイラクへと力の行使に突き進もうとしていた。米本土を狙う脅威は座視しないという。こんな「ブッシュの戦争」について聞こうと久々にブライアン・ヘア教授を訪ねてみた。
 「歴史家はやがてブッシュ大統領の戦争を誤りと断じることになろう。軍事力を使う緊急性はあるのか。十分な大義はあるのか。同盟国の理解を得られているのか。そのいずれも否である」
 わが内なるブライアン・ヘア教授は、宗教家と国際政治学者の境目がすでに溶解してしまっている。優れて信仰に身を捧げる者は、優れて現代の抱える課題に向き合う――。師の後ろ姿からそんなことを学んだのだった。


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