「想定外」が舞い降りた
「あり得ない事態」の降臨
●まずタイトルにある「ブラック・スワン」の意味合いについて伺います。
手嶋 純白であるべき白鳥が漆黒の羽をまとって突然我々の眼前に現れる。あり得ないと思いこんでいた事態が現実になる隠喩なのです。現に一六九七年、オーストラリア大陸でブラック・スワンが見つかりました。その意外性のゆえに人々に強烈なインパクトを与えたのです。
鉄壁の守りを誇るアメリカ本土を襲った九・一一テロ事件も、安全神話を謳歌していた日本の原発を見舞った三・一一メルトダウンも、ブラック・スワンは柔らかい脇腹を衝いて降臨した。その点でこの二大事件は分かちがたく繋がっていると言っていいでしょう。
●二〇一一年は「想定外」という言葉が流行りましたが、原発事故もビンラディン殺害も、事前に十全のインテリジェンスがあったわけではない。確かな決断の拠り所としてのインテリジェンスという言い方自体に本質的な矛盾を孕んでいます。
手嶋 冒頭から剛速球がきましたね。「十全のインテリジェンス」は確かに深い言語矛盾を孕んでいます。インテリジェンスとは、膨大なインフォメーションから決断の拠り所となる情報を選り抜き、事態の本質を抉り出すわざです。だが、完璧なインテリジェンスなどありえない。ニッポンのリーダーには、確かなインテリジェンスさえあれば、誤りなき決断が下せるという幻想があります。しかし現実には不完全なインテリジェンスを足がかりに、決断を下さなければならないのです。
ビンラディン殺害の際も、オバマ大統領は、成功率は五〇%から七〇%と言っていました。実際、初めて実戦に投入し最新鋭ヘリコプター「ブラック・ホーク」一機が現地で墜落しています。八〇年のイランの人質救出でも墜落事故が起き、これが躓きの石となってカーター大統領は再選を逃しています。オバマ大統領は失敗を怖れず作戦を命じて動じませんでした。
想定すら出来ない事態をなお想定して、ブラック・スワンに備えよ――。これこそ有事に決断を委ねられた指導者の心構えです。そのためには、国家の中枢に、情報の心臓に譬えられる「インテリジェンス・サイクル」が粛々と機能していなければいけません。しかし、日本の民主党政権には、膨大なインフォメーションからインテリジェンスを選り抜くこのサイクルが機能不全に陥っています。
●サブタイトルにはっとしました。思えばこの十年を総括する発想が我々に欠けていたことを改めて気づかされます。
手嶋 欧米の戦略家は、十年を最低の括りとして世界の潮流を見立てています。わが日本は、あの九・一一事件をどこか対岸の火事に見ていたのでしょう。この時、降臨したブラック・スワンをつぶさに観察していれば、フクシマを襲った三・一一のブラック・スワンにもう少し適確に対処できたはずです。経済大国ニッポンは、この十年を漫然とやり過ごし、世界の冷厳な現実に向き合わなかったのかもしれません。
国際政局の力学からこの十年を眺めてみると、東アジアは従来とは異なる姿で我々の前に浮かび上がってきます。超大国アメリカは、中東と中央アジアに国家戦略のすべてを注ぎ込み、同時にビンラディンとアルカイダ殲滅に国家の威信をかけました。
だが、その間に東アジアでは、新興の大国中国が飛躍的に影響力を高め、アメリカのプレゼンスは希薄になってしまった。本来なら、同盟国日本は、独自のインテリジェンス回路を構築して、日米同盟の劣化に備えるべきだったのです。しかし、戦略指導部を欠くニッポンは、漫然とこの十年を過ごしてしまった。東アジアの安定の要といわれた日米同盟が綻んでいることを見て取った東アジアの諸国は、日本へ攻勢をかけることを躊躇しませんでした。
そして、フクシマの惨劇が起きたことで、経済大国の中枢にインテリジェンス・サイクルが不在だった実態を全世界に曝すことになったのでした。日本に密かに忍び寄る危機を自力で察知し、それを撥ね退ける態勢をとれない状況を衝いて現われたのがブラック・スワンだったのです。
危機が育んだリーダーなればこそ
●アルカイダの首魁をついに葬ったことで、アメリカのインテリジェンスは、十年戦争でついに凱歌をあげました。
手嶋 米大統領は、日本の首相と二つの点で決定的に異なっています。暗殺の危険と核のボタン。とりわけオバマ大統領はいまも暗殺の危険と直面しています。皮肉なことにその重圧が大統領を鋼のように鍛えています。加えて統領は核兵器のボタンと添い寝をしています。ニッポンのリーダーはこれほどの緊張に耐えられないでしょう。ビンラディンを屠った「ネプチューンの槍」作戦では、オバマ大統領は、最終決断から実行までの七十二時間、ポーカーフェースを貫きとおしました。シェークスピア劇のローレンス・オリヴィエを思わせる名演技でした。
●手嶋さんは本作中で、その「現場」が世界各地に点在するにも関わらず多くの場合臨場していますね。九・一一の際のワシントンの描写はもちろんですが、本作のキーパーソンたちが至近距離で描かれている点は驚きです。
手嶋 前作二つのノンフィクション作品では、筆者である私は現場にいるにもかかわらず、作品には「私」がほとんど登場しません。意図的に「私」をそぎ落としてあるからです。筆者は現場にいるがゆえに尊からず。取材対象に近いほど見落としているものもある。一方、今回の作品では、九・一一から三・一一まで読者を誘っていくため、「私」という案内役が要る。それで少しだけ「私」を作品にちりばめてあります。
日本の国境線は縮みつつある
●日本のインテリジェンス能力を語るには、近年の日本外交を見るのが最良の方法です。それにつけても、日米同盟が刻一刻と黄昏れゆく様は空恐ろしいほどです。
手嶋 私は既に冷戦の幕が下りる頃から、日米同盟に黄昏がきざしつつあると指摘してきました。FSX・次期支援戦闘機をめぐる日米両国の暗闘を描いた『たそがれゆく日米同盟』(新潮文庫)で、東京・ワシントンに走る亀裂を描いたのですが、当時は「狼少年」と言われたものです。いま、狼少年であり続けたことをいささか誇らしく思っています。
九・一一テロをきっかけに始まった「ブッシュの戦争」は、アフガン戦争からイラク戦争への続き、その果てに、東アジアに巨大な力の空白を生み出してしまった。加えて、民主党政権の同型外交の失敗が、太平洋同盟の亀裂をより決定的なものにしてしまいました。
●日本を取り巻く国境線が次第に縮んできている、という指摘もまた刺激的です。
手嶋 日本のような海洋国家は、国境は不変のものと考えがちです。しかし、無能な政治指導者をいただく国家はあっというまに国境線を後退させてゆくのです。いまやインテリジェンス・ウォーの主戦場は、サイバー(宇宙)とスペース・サイバー(IT)に移りつつありますが、目に見えにくい空間でも、ニッポンの権益は縮みつつあると言っていい。縮みゆくニッポンの現状を直視すべきです。
フクシマが暴いたこと
●そうした日本の「インテリジェンス・サイクル」の機能不全ゆえに、フクシマ原発事故は悲劇的様相を深めていったと?
手嶋 そう言っていいでしょう。冷戦期のソ連邦は、エリツィン革命によって滅んだと思われがちです。そうではない。ソ連邦はまさしくチェルノブイリ事故の痛打を浴びて崩壊していったのです。硬直した社会主義体制は、「神の火」を統御できないことがあきらかになったのです。同様に戦後の日本型社会システムが、フクシマの原発事故を前に、なす術を知らず、いかに脆弱かを露呈してしまった。「神の火」を征服したかのように振舞っていた政界、産業界、学界は、その慢心の愚かさを思い知らなければいけませんでした。
●作中、ヘリコプターが地上に舞い降りるシーンが四つ記述されています。各々がとても印象的でした。ビンラディンの頭上にブラック・ホークが、ホワイトハウスの中庭にブッシュが、福島原発に菅首相が、そして最後は原子炉に水を撒く自衛隊ヘリがという具合です。うち二機には一国のリーダーが搭乗していました。
手嶋 筆者としては、ブラック・スワンがまさしくこの地上に降臨したことをこの四つのシーンにだぶらせたつもりです。状況は異なるものの、突然舞い降りる黒鳥にどう立ち向ったのか。それぞれの国家、それぞれの指導者の素顔を覗き見た思いがします。
●有事においてリーダーがどこにいるべきなのか。ミッドウェー作戦を取り上げている場面は説得力がありましたね。
手嶋 パールハーバーから今年でちょうど七十年となります。真珠湾奇襲攻撃を企図したのは、連合司令艦隊長官の山本五十六です。なんという歴史の皮肉でしょう。山本五十六こそ当時の軍令・軍政の首脳陣にあって、強硬に対米開戦に抗った人でした。彼は奇襲作戦の陣頭指揮を執るべく機動部隊とともに北太平洋を航行しハワイ沖を目指したかったはずです。海戦阻止の可能性を最後の瞬間まで探ろうと国内にとどまりました。このため、ミッドウェー海戦では、自ら旗艦大和に座乗して、機動部隊と行を共にしています。しかし、無線封鎖によって機動部隊との連絡を取ることができず、戦局全般を見渡すことができなかった。一方の敵将ニミッツ提督はハワイの太平洋艦隊司令部にあって、作戦を総覧しました。統帥の常道は、後方にあって指揮を執ることでしょう。
福島原発事故への対応をめぐって、メルトダウンが目前に迫り、一分一秒でも早い決断が日本国の首相に求められるさなか、菅首相はヘリに乗って現地に迷い込んでいきました。この行動は、ミッドウェー海戦の敗戦訓から戦後日本が何も学んでこなかったことの証左でしょう。
この十年の帰結――特攻作戦
●本作中、四つ目のヘリ降下は、三月十七日の自衛隊機「チヌーク」によって行なわれますね。
手嶋 原子炉に散水したヘリは「フクシマの特攻隊」と称賛され、外国メディアにも紹介されました。レイテ沖海戦で初めて採用された特攻作戦と福島の自衛隊ヘリによる作戦には、一つだけ共通点があるように思います。統帥部が特攻作戦の隊員に明確な命令を発していない点です。あくまで志願の形をとって危地に赴かせた。福島の上空を飛ぶヘリコプターは放射性物質を浴びる覚悟で、敢えて低空で航行しましたが、これも必ずしも命令ではありません。
その一方で、戦争末期の特攻作戦を命じた大西瀧治郎提督など少数を除けば、戦時の統帥部もまた、菅政権と同様に明確な結果責任を取ろうとはしませんでした。菅直人首相にいたっては、「決断するは我にあり」と、桂冠したいまも自覚していないように思われます。ですから、あの運命の瞬間に、自分が展望なき特攻作戦を命じたという意識も希薄なのでしょう。それゆえ、フクシマは「現代の哀しき特攻」となったのでした。いまの日本という国家のありようが垣間見えて絶望すら感じます。菅首相の惨めな姿は、我々の戦後の一面を映していると自分に言い聞かせています。国家の土台が歪んでいると言わざるを得ません。再建にいま一歩を踏み出さなければ――。