「ブッシュの戦争」に抗った女性諜報員
「CIAの工作員なんだろ、彼女は―」
ワシントンD.C.のジョージタウンにある洒落た酒場では、夜ごとこんな会話が交わされる。「知らない」―。僕は一切応じたことがない。軽率に話題に触れれば、わが身に危険が及ぶ。それどころか当人を抹殺しかねない。
政治の街ワシントンには仮面を被った諜報員が溢れている。ハイテク企業の役員、シンクタンクの研究員、証券会社のアナリスト―。彼女たちは、諜報活動に携わるにあたって偽装した肩書を使う。十六を数えるアメリカ政府の情報機関のどこかに籍を置き、インテリジェンス・コミュニティの一員となっている。そして情報の収集のため時に海外に赴いていく。
映画「フェアー・ゲーム」の主人公、ヴァレリー・プレイムもそんな諜報要員のひとりだった。彼女はかつてアメリカの外交官、ジョセフ・ウィルソンとこの街で恋に落ちた。だがCIA・アメリカ中央情報局の工作員であることを永く打ち明けようとしなかった。素顔を覗かせるな―。峻烈な組織の掟をおわかりいただけよう。
ふたりはやがて結ばれるが、「ブッシュの戦争」が彼らの運命を弄んでいく。あろうことか、アメリカ政府の高官が禁を破って、ヴァレリーの仮面を引き剥がしてしまったからだ。その果てに有能なインテリジェンス・オフィサーを消し去ることになった。
この映画に描かれた出来事は、筆者のワシントン在勤中に起きたリアル・ストーリーなのである。魔物が潜む政治都市の情景、そして非情な情報の世界に暮らす諜報員の表情をカメラは精緻に写し取っている。サダム・フセイン政権は国際テロ組織アルカイダを水面下で支えている―。そう断じてイラク戦争へと突き進む当時のワシントンの空気が画面から匂い立ってくるようだ。
戦端をひらく機を窺うブッシュ政権にとって、戦争の大義が何としても必要だった。サダム・フセイン政権が隠し持つ核・生物化学兵器の証拠を何としても手に入れろ。ホワイトハウスは、諜報機関に檄を飛ばした。
「飢えた猟犬の眼前に投げ与えられた血の滴るような肉。それがあのニジェール産のウランの話だった」
諜報機関の首脳のひとりは後に自戒を込めてこう述べている。政権首脳が渇望する情報を差し出したい。そんな功名争いが超大国を誤らせていった。
イラク政府は、アフリカのニジェールから「イエロー・ケーキ」と呼ばれる酸化ウラン、五百トンを買い付けようとしている―。イギリスの対外諜報機関MI6からの極秘情報にブッシュ政権は飛び付いてしまう。イラクへの軍事介入を容認する国連決議の採択を目指して、主要国との駆け引きがヤマ場を迎えていたからだ。二〇〇二年十月のことだ。
実はイギリス政府は、このニジェール情報を「信頼度は最低レベル」と評価していた。だがホワイトハウスの首脳には抗いがたい獲物に映ったのだろう。情報の出処はとかく良からぬ噂のあるイタリアの情報機関だった。ヴァレリーの薦めで、CIAは夫のジョセフ・ウィルソン大使を現地調査に派遣した。アフリカで豊かな経験をもつベテラン外交官は、ニジェールで徹底した調査を行った。「イエロー・ケーキ」がイラクに売却された事実を裏付けとなる証拠がない。こう断じた調査報告はCIA経由でホワイトハウスに送られた。
だが、イラク攻撃の直前、ブッシュ大統領は「一般教書演説」でこの疑惑に触れてしまった。二〇〇三年一月のことだ。
憤懣を抑えきれないウィルソン大使は、半年後、ニューヨーク・タイムズ紙に「私がアフリカで発見しなかったもの」と題して投稿する。これがブッシュ政権首脳の怒りを買い、夫妻への包囲網が敷かれていった。権力を握るものに刃物は要らない。法を冒してジョセフの妻の仮面をそっと剥がしてしまえば始末がつく。映画では、対峙する孤立した夫妻の戦いが克明に描かれている。アメリカの正義とは何だったのか、超大国の素顔を知る秀作と言っていい。