手嶋龍一

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私だけのふるさと:手嶋龍一さん 北海道芦別市

◇炭鉱主の父、珍客にぞくぞく

 生まれは北海道の炭鉱街、芦別。父は自らヤマを掘り当てた炭鉱主でした。いま故郷は最も爽やかな季節を迎えているでしょう。水ぬるみ、近隣のラベンダー畑に陽光がさんさんと降り注ぐ。でも、そんな夏は短くて、8月末にはもう秋風が立ちはじめます。

 炭鉱の経営者でしたから、我が家は炭鉱住宅街を見下ろす高台に建っていました。あのころ炭鉱街は、エネルギッシュで、人間臭く魅力的。探検して歩くのが楽しかったなあ。坑内から上がってきた人たちは昼間から酒を飲み、つぼを振って丁半ばくちをしていたりするんです。玄関先からそっとのぞいていると、家に上げてくれて。僕もつぼを振らせてもらったものでした。

 石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれて、芦別は潤っていました。そんな街に落盤事故が襲いかかることもありました。真夜中にサイレンが鳴り響く。父はゲートルを巻いて、制止する母を突き放し真っ先に暗い坑内に入っていきました。今も深夜にサイレンを聞くと、あの日の情景がよみがえってぞっとします。

 父は福岡・筑豊の生まれで、きっぷのいい「川筋気質」。一山一家というか、同じヤマで働く者同士なら生死も共に--という人でした。顔を真っ黒にした炭鉱作業員が訪ねてくると、座敷の上座に据えて自ら酌をするんです。ですから、我が家の労使交渉は風変わりで、表向きは相当に過激なやりとりがあり、終わると宴席が始まる。帰り際には、ある種の“土産”がどんと手渡されて。労使交渉とはそういうものと、母は亡くなるまで思っていました。

 当時の炭鉱主の元には政界のフィクサーから旧日本軍の高級参謀、旧満州(中国東北部)帰りの官僚まで、さまざまな人が出入りしていました。あるときにはクーデター未遂事件を起こした重要容疑者が逃げ込んできたこともある。僕は障子に穴を開け、彼と父とのやりとりの一部始終を目撃したものです。ぞくぞくするような少年の体験だったなあ。

 逃亡ほう助に問われても、知人に頼られたら決して拒まない。これが情に厚い「川筋気質」なのでしょう。母は気丈な人でしたが、こんな父のDNAが僕に受け継がれることをひどく恐れていました。でも、どこかであきらめていたのか。せめて、行儀良く食事をし、身なりも整えて、外見だけは普通の子どもにと願っていたようですが……。

 エネルギー革命で、炭鉱街は内地の繁栄をよそに急速に傾いていきました。僕らは高度成長に背を向けて育った。でも、あの自由な空気に満ちあふれた少年期の体験は、後の米国暮らしで随分と役立ちました。新たな天地を求めて移り住んだ人々の心の内をよく理解できたからです。だからなのか、「風変わりな性格だな」とよく言われます(笑い)。

  「我らが精神の王国へ、中央権力の介入は許されない」。米国民がバックボーンとして持つこの共和国の概念は、わが北国の暮らしを通じて共感できました。北の炭鉱街で生まれ育って、本当に良かったと思います。

【聞き手・根本太一】

毎日新聞 2011年6月23日 東京夕刊に掲載

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