手嶋龍一

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「沈黙のインテリジェンス・オフィサー石光真清」

主を喪った書棚にその一冊はひっそりと並んでいた。『石光真清の手記』(中央公論社)だった。『城下の人』『噴野の花』望郷の歌「誰のために』の四部作を愛蔵版として一冊にまとめた、一千ページを超す大著であった。表紙のケースから本を取り出してみると随所に付箋がつけられている。時折、手にとっては、明治という時代が生んだ特異な武人の生涯を辿り、故人の境遇と重ね合わせていたのだろう。

「私にというご遺志を有り難くお受けして謹んで頂戴します」

私は膨大な蔵書からこの一冊を選んで形見として頂いた。書庫の主は若泉敬。
沖縄返還交渉で時の総理、佐藤栄作の密使を務めた人だった。極東の有事には、沖縄への核兵器の持込みを認める――。この「秘密合意議事録」を取りまとめたのが、 コードネーム「ヨシダ」を名乗る若泉だった。密約に関わったのはたった四人。佐藤と若泉、それにアメリカ大統領のリチャード・ニクソンと国家安全保障補佐官のヘンリー・キッシンジャーだ。

若泉は沖縄が返還されると、故郷の福井県鯖江に隠棲し、再び世に出ようとはしなかった。一切の沈黙を守り通して国家の機密を墓場まで持っていくつもりだった。だが沖縄返還から日が経つにつれ、祖国の姿が愚者の楽園と映るようになっていく。密約の存在を包み隠さず明らかにすることで、主権国家が持つべき衿持を忘れ果てた現状に覚醒を促したい――。こう願って『他策ナカリシフ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)が公刊された。日清戦争の後、三国干渉に遭って譲歩を余儀なく終肺社交渉の経緯を綴った陸奥宗光の『養塞録』の一節から採って標題とした書だ。それは対米同盟に安易に身を委ね、安逸をむさぼる日本への諌言の書でもあった。

若泉は国家の機密を公にした結果責任をとるべく、この書の刊行とともに沖縄の忠魂碑で自らの命を絶つ覚悟だった。その決意が堅いことを知っていた私は、せめて英語版を世に出すまでと説得した。その頃、若泉が心の拠りどころにしていたのが『石光真清の手記』だった。誕生間もない明治国家を列強のなかで生き延びさせるため、「露探」と蔑まれた対露諜報員になった人の赤裸々な記録である。『他策ナカリシフ信ゼムト欲ス』の編集 者が、石光真清の孫だったことも決して偶然ではあるまい。

黒龍(アムール)河の畔に広がる街、黒河から、この極東の大河を挟んで対岸の街の灯を眺めたことがあった。一九八〇年代半ばのことだった。「ああ、あの街灯こそ、石光真清が写真技師として潜んでいたブラゴベシチェンスクだ」

ロシアの極東経営の要衝を目の当たりにした感慨をいまも鮮やかに覚えている。中ソの精鋭部隊が、ダマンスキー島で激突し、両国が核戦争の深淵をのぞき見たのもこの国境地帯だった。それから十余年、中ソ両大国を隔てていた大河の氷もわずかに溶け始めていた。西側のメディアとして初めてカメラ・クルーを引き連れて「国際政治の空白地帯」と呼ばれるこの一帯に入ることを許されたのだった。それは「露探」石光真清の足跡を迎る旅でもあった。

石光真清は明治維新の年に熊本の士族の子として生まれ、陸軍幼年学校に入って陸軍士官となる。そのまま陸軍の要路を歩めば、将官の地位が約束されていたことだろう。だが日清戦争に参戦した青年士官は、北の強国ロシアの影が極東に伸びていることを敏感に感じ取り、ロシア語を学ぼうと決心する。ブラゴベシチェンスクを留学の地に選んだのだった。
インテリジエンス・オフイサー石光はこうして誕生する。やがて軍服を脱いで写真技師に身をやつし、様々な人々と交わって、対露情報の収集に当たったのである。

インテリジェンス・オフイサーは、洋の東西を問わず、自らの功績を語らない。情報源こそ、彼らの、そして国家の命に等しいからだ。それゆえ、自らがもたらした貴重な情報が祖国の危局を救っても、歴史にその名が刻まれることはない。それが情報の世界に生きる者たちの宿命なのである。石光情報は、まさしく強国ロシアに立ち向かう日本の命運をも左右するものだった。児玉源太郎をはじめ統帥部の首脳は、その価値を認める豊かなインテリジェンス感覚を備えていた。石光真清の生涯でもっとも輝いていた瞬間だった。

かくして若き明治国家はかろうじて日露戦争に勝利を収め、石光真清は日本に帰って三等郵便局長となった。市井の人として静かな暮らしを始めている。だが、ロシアにボルシェビキ革命が起こり、列強は赤色革命が波及することを恐れてシベリアに出兵。こうした情勢に突き動かされるように、希代のインテリジェンス・オフィサーは錦州で物産陳列館を開き、やがて参謀本部の強い要請で再びシベリアに赴いていった。
だが、時代は明治から大正に変わり、軍も巨大な官僚組織に変質し始めていた。
もはや明治期のように、国家の命運と自らの理想をぴたりと重ね合わせることがかなわない時代となっていた。 石光が現地の中国人やロシア人と信頼の絆を深めるほど、軍中央の意向と背馳していった。
石光真清という明治の精神は、もやは現実と折り合いをつけていくことが次第に難しくなっていったのである。

若泉敬がこの明治期の青春群像にこれほどの共感を示したのも頷ける。
家族も栄達も擲ってすべてを捧げたはずの国家と国民が見るも無惨に堕落していくさまを見ることは耐え難い。 石光真清と若泉敬という二つの精神が目撃しなければならなかったのはそんな光景だった。
それは時代に取り残されたアウトサイダーの繰言などではない。
二人の視線に狂いがないことは、いまの政治の惨状を見れば明らかだろう。

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