『おやじのせなか』炭鉱経営 作業員にお酌
真夜中に落盤事故を知らせるサイレンが鳴り響く。母の制止を振り切り、真っ先に坑内に入っていく父。石炭が「黒いダイヤ」と呼ばれた時代、北海道芦別市などで中小の炭鉱を経営していました。
01年の9・11米国同時多発テロの時、NHKワシントン支局長として連日中継で報道しましたが、頭の中には、あの時の父の姿がよみがえっていました。
父の元には、労働組合の幹部から児玉誉士夫など右翼の大物、旧日本軍参謀まで、ありとあらゆる人が出入りしていた。ある時、顔中炭だらけの炭鉱作業員たちが訪ねてきました。彼らを床の間の上座に据え、父はお酌をしていました。どんな大物にもそんな対応はしなかった。「父にとっては、この人たちが主人公なんだ」と感じました。
小さい時、畳の部屋の周りの風景がどんどん流れていく思い出があるんです。なんだと思います? 息子に自分の故郷、九州を見せようとお座敷列車を借り切ったのです。金銭感覚が世間の常識から全く外れていました。
そんな父に一度だけしかられたことがあります。お山の大将だった僕が近所の子どもを引き連れて歩いていたのを見て「子分に荷物を持たせてはいかん」といさめました。
61年に、旧軍人らが無税・無失業・無戦争を掲げて政府要人の暗殺を企てて未遂に終わった「三無事件」が起きます。学校から帰ると、目がすわった、ただならぬ雰囲気の男が「ご主人が帰るまで待たせてもらう」と居住まいをただしていました。事件の首謀者の1人が父を頼ってきたのでした。
父は、男が腹に巻いたさらしから取り出した手紙を読んだ後、ストーブの火にくべ、男に手を出させました。「その手では炭鉱では働けまい」。何でもするという男を引き受けようとした父に、この時ばかりは、母が猛反対しました。1晩だけ泊めて、父は段取りをつけて男を逃がしました。
私が中学生の時、60代半ばで亡くなりました。高度経済成長と逆行するように、石炭産業は斜陽になっていきます。自分の時代の残影がかすかにある時期に人生の幕を下ろした父は、むしろ幸せだったんじゃないかと思います。
(聞き手・芳垣文子) 朝日新聞7月13日付朝刊掲載