手嶋龍一

手嶋龍一

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「できない約束をしてはいけない」

9.11同時多発テロの際に、日本人は情報の多くをこの人から得たはずだ。いまや伝説となった11日間にわたる24時間中継。それを支え続けたのは当時のワシントン支局長手嶋氏の的確で洞察の行き届いた解説レポートだった。

情勢が変わったからといって
約束を違える人を、私は許さなかった

外交ジャーナリスト、手嶋龍一は一見、眠たそうな目をしている。彼はしばしば親しい前外務事務次官、谷内正太郎を「昼行灯のような」と形容するが、ノホホンとしたおとぼけ顔の裏に強固な意志と企みを隠す「現在の大石内蔵助」という意味では、手嶋のほうがよほど「昼行灯」にふさわしい。

彼の仕事術の本質はその素顔にある。天性のジャーナリストだから誰の懐にも上手に滑りこむが、その本領は部下を手足のごとく操るチームプレーにはない。彼は常に単独潜行、人知れぬ人脈を掘りおこし、どこからともなくスクープを拾ってくる。

NHKという大組織にかつて所属していたが、あくまでも組織人ではなく、孤独なマニピュレーター(操り師)だった。

敵は少なくない。古来、孤高は嫉妬を招くが、敵のいない男は仕事もできない、という鉄則の生きた証でもある。かつては「外務省のラスプーチン」佐藤優とも敵だった。

「ロシアの佐藤さんとワシントンにいる私では、どうしても敵対せざるを得ないところがあります。佐藤さんは国家を、私はNHKという巨大組織を背負っていた。どこにインテリジェンスを求めるかという立場の違いも会って激しく対立していたのは事実です」

今は立場の違いを乗り越えて親しくなり、佐藤の裁判に助言したり、共著も出しているのだが、敵対していたころ、佐藤が手嶋を評して「情報の世界のプロフェッショナルだ」と言ったことがある。

好敵手はどこかで相通ずる。なぜ佐藤は彼を認めたのか。

「私はできない約束をしないし、一度した約束は決して破らない。それは組織の論理を超えて優先させていましたし、情勢が変わって約束を違えるような人を、私は許さなかった」

組織人は組織の論理を優先する。手嶋はその誇りなき無責任が許せない。

「北海道・芦別の炭鉱主の息子として生まれて、あまり金銭的苦労をしたことがない点、巨大組織にいても組織を気にしないというか、いつでも(NHKを)やめられるという強みになっていたかもしれません。生活のため、組織のために約束を違えてしまう人を許さない私を見て、家人に叱られたことがあります。『何をあなたは気楽なことを言ってるの。みなさん、生活優先主義者なのよ』と。そういう堅気の苦労をしなくて済む立場なんだから、早く組織を離れるべきだと私自身、ずっと思っていました」

眠たげな目の奥で彼は否応なく自らの特異性を自覚せざるえない。

「ある大手出版社の編集者から『あなたは変わってるなあ。同時代体験が三つ欠けている』と言われたことがあります。ひとつは戦後民主主義。父の炭鉱には中国から引き揚げてきた大陸浪人たちが出入りして、労組と敵対して『スト破り』に躍起でしたから、そうした家庭環境は、教科書的な戦後民主主義とは無縁でした。第二の欠落した体験は受験戦争。東京にも家があって、どちらで暮らすかと聞かれて、言下に『北海道がいい』と言いました。おかげで、中卒のまま就職する人がクラスに5人も10人もいる環境で育ち、およそ受験戦争とは縁がなかった。最後の欠落は高度成長。炭鉱という滅びゆく産業の最期をみとった。石炭産業はどんどん没落し、高度経済成長とは逆の歩みだったんですね。そういう人は少数派だから、もの書きに向いているって、編集者に言われましたが(笑)」

権威に頼って仕事をしなかった。
記者クラブ的な『横の連帯』も嫌いでした。

だが、慶応大学在学中の1971年、日中青年交流ミッションに加わって訪中し、周恩来首相と面会するという得難い体験をした。

「ニクソン訪中の前年でした。キッシンジャー特使が中国を訪れ、周恩来と握手する歴史的瞬間があった翌月、まだ20歳そこそこの私は怖いもの知らずで、周恩来との接見の機会にこう質問したんです。『今まで中国が言ってきたこと(反米反帝主義)と違うじゃないですか。どうしてでしょうか』と。周恩来は不快だったと思うけれど、おくびにも出さず応えました。『我々が闘うには、二つの方法がある。武器で戦う闘争と、テーブルについて戦う闘争と。今はテーブルで戦っている』-とね」

まさに手嶋の新著『葡萄酒か、さもなくば銃弾を』の世界である。彼はこの瞬間、ディプロマシーの深淵に目覚めた。その体験はいまも鮮やかに心に蘇る。

「歴史の巨人のなかで一番印象に残った人物をあげよ、といわれたら、やはり若くて感受性が豊かな時に会ったせいもあり、私は周恩来をあげますね。納得できない点も含めて彼の話はあやふやだったんですが、細部まで強烈な印象を残す人でした。たとえば周恩来の着ていた人民服。間違いなく特別仕立てのいい服でした。色合いや光沢にデザイン。ピエール・カルダン製じゃなかったかと、今も思っているんです。その周恩来との出会いから、私は今の道に進むことになりました」

ジャーナリスト手嶋の原点である。

「実務家や実践者から聞く話は貴重ですが、その語り部が『仕事は汗だ、努力の結晶だ』といったタイプの人では意味がありません。自分の体験を、完全に自分のなかに取り込んで、咀嚼して自分の言葉で語れる人でないと聞く意味がない。レクチャーがレクチャーたりえない。そんな伝達能力のある第一人者を見つけ、教えてもらうのが血肉となる知識の第一歩で、アフターファイブの異業種交流会のようなものには意味がありません」

「たとえば第一人者の教えを請うとなると、そういう第一人者が教授や講師を勤める大学院で、1年なり2年、平日の夜や土曜日などを利用してみっちり勉強しレポートも書き、たいへんな苦労をすることもあるでしょう。リスクではありますが、たとえ学問でもリスクを取らなければ成果は得られません」

それを彼は取材でも貫徹した。

「私はNHKという大組織にいたけれど、権威に頼って仕事をするタイプではなかった。記者クラブ的な『横の連帯』も嫌いでした。だから独立にあたって苦労することもありませんでした。日本に帰ってきたら黒塗りのハイヤーを使える身分ではあったけれど、移動は地下鉄。NHKという看板に対する未練もなかった。組織に対する感謝の気持ちはあるんですが、身分や保証を求めたり、権威を利用したりする気持ちはありませんでした。

クオリティーコントロールのできない人は
プロの職業人たり得ない

彼はスケジュール帳を持たない主義だ。「NHKの特派員としてワシントンに都合2回、十数年駐在したんですが、スケジュール帳を持たなかった。だってワシントンは日々情報が飛び交い、重大な事件が発生する世界最先端の街ですよ。スケジュール帳に予定を書き込んで、3日後に重大な約束があると知っていたら、瞬発力がなくなる。『その日までに仕事を終わらせよう』なんて思っていたのでは、身動きがとれなくなってしまう」

そこに彼の徹底したプロ意識が反映している。彼はギャンブラーでもある。ディープインパクトの生産牧場ノーザンファームの吉田勝巳は親友だが、プロ意識を尊ぶからこそだ。

「賭け事は好きです。そして多分、強い。ギャンブルは確率であり、確率の高さを誇るのがプロだと思っています。アマチュアだってハイスコアを記録することはあるんですが、常時は無理です。ところがプロは、腹が痛くても風邪をひいていても、一定レベルの質の高さを保っていなくてはならない。ギャンブルにおけるプロとアマの違いは、確率で勝負するという意味において、職業人にも通用する。クオリティコントロールの出来ない人は、プロの職業人ではありません」

昨今のジャーナリズムへの不満も、そのプロの意識の低さに由来する。

「ジャーナリズムがやせ細っていると思うのは、みんなが同じ方向に流れていること。公務員のタクシーチケット問題がいい例です。批判して当然だし、『私は怒っています!』という街の声をひろってくるのもいい。ただ、100人が100人、いかがなものかと思っていることを、各社、横並びで怒りの番組をつくることに意味があるとは思えない。ジャーナリズムはそんな安全地帯にいて石を投げていてはいけない。工夫の無い番組作りを見ていると、メディアのエネルギーレベルが落ちてきていると思います」

彼の念頭には、父の炭鉱で見たカナリアの籠が浮かんでいる。

「坑内に入って行く時、トロッコの先端に鳥籠をぶらさげ、中にカナリアを入れて連れて行くんです。坑内のCO(一酸化炭素)が増えてくると、まずカナリアの方が敏感だからバタッと死ぬ。我々ジャーナリストの役割って、このカナリアと同じです。結論が出たことに、同じ方向から攻撃を加えるのは『カナリアの仕事』ではありません。異常事態をいち早く察知して、国民に危険信号を発する先見性こそプロの証でしょう」

「日本のルポルタージュやノンフィクションは私小説の影響を強く受けていて、『私は見た』『私は感じた』を連発するんですね。『その時私は現地にいて、体が震えるほどの怒りを覚えた』とかね。アメリカのジャーナリズムが凄いというつもりはないけど、世界の先端で戦っているジャーナリストは、こんな情緒的な表現は使いません。『私が見て感じた』という文章は、思ったのは事実だから訴訟の対象になりません。やはりここでも日本のジャーナリズムは、安全地帯に逃げている。そうではなく、自分を消し、一人称すら使わずに、ひたすら事実の積み重ねで勝負するのが、ジャーナリストの役割だと思う。そうした厳しい文体で戦う一流のジャーナリズムに比べて、日本の『私小説ノンフィクション』はいかにもひ弱です」

NHKから早々に独立し、今は執筆活動を通じてジャーナリズムを実行する。

「今、三つの系譜の仕事を進めています。外交そのものを論じるノンフィクション、『ウルトラ・ダラー』のようにフィクションの形を取った外交問題、それに今回の本のようなルポルタージュです。『葡萄酒か、さもなくば銃弾を』では29人を集め、その人となりを紹介、論評しましたが、その前には『ライオンと蜘蛛の巣』という29都市のルポルタージュを書いています」

最期に本誌のタイトル「セオリー」を評して、

「情報もカネも企業もグローバルに展開する複雑な時代に、事象を読み取りつつ分け入っていくための作法や指針は必要です。ネットやなにかに情報はあふれていますが、そのなかから誰の何を選ぶという選択肢が国民には求められており、メディアやジャーナリストはその要望に応えなくてはなりません。双方に高いレベルの意識が必要で、それはノウハウではなくセオリーなのです」

(文中一部敬称略)
「セオリービジネス」誌2008vol.4(講談社)掲載

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