手嶋龍一

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「日本のインテリジェンス強化に必要なのは、省壁除去と人材の育成である」

テロを水際で防いだ英国情報機関の底力

インテリジェンスの世界は「錯誤の葬列」だといわれる。極秘情報の収集や評価は、失敗の連続がむしろ常態だからだ。にもかかわらず、イギリスの捜査当局は、旅客機の爆破テロ事件を未然に突き止め摘発した。テロ計画をひそかに進めていたイスラム過激派グル―プを一斉に検挙したのだ。二〇〇六年八月上旬のことだった。大がかりな航空機テロを水際で防いだことは、従来の常識を打ち破る快挙だった。その背後ではSISやMI5などの英国情報機関が緊密に連携した。これらの情報機関がその功績をスコットランド・ヤードに譲り、メディアに姿をみせなかったところに、その底力を見た思いがした。

その英国情報機関も、〇五年七月、ロンドンで地下鉄・バス爆破テロ事件を許している。死亡五二人、負傷者七〇〇人以上の惨事を未然に防ぐことができなかった。犯行グループは英国内に潜んでいた。外国から潜入したイスラム過激派ではなく、英国籍のイスラム教徒の若者たちが中心だった。英国の情報機関が、彼らの動きを察知できなかったのである。致命的な失策だった。

当時のクラーク内相は、カウンター・インテリジェンス(防諜)体制の不備を率直に認め、ただちに、テロの再発を防ぐ新たな手を矢継ぎ早に打っていった。英国内のイスラム・コミュニティを徹底した監視下に置いたのである 【*1】 。同じ英国民でありながら、イスラム系というだけで、なぜ彼らを敵視するのか。民主主義社会を根底から覆すものだ――こうした批判を覚悟しながらの決断だった。

官房長官へのインテリジェンスも塵芥情報

〇六年七月初旬、北朝鮮は七発のミサイルを相次いで発射した。小泉官邸は、そのXデーを事前にかなり正確に入手していて、首相官邸が水際立ったオペレーションを遂行できたのは、そうしたインテリジェンスに預かっている――。すべて察知していたかのような解説がメディアにまことしやかに流された。北朝鮮に情報戦略を発動し、主要国とも互角に渡り合ったといいたいのだろう。ロンドン地下鉄テロ事件の失敗を率直に認めたクラーク内相。自らの功績を語らない情報機関。彼我の差はあまりにも大きい。

日本の情報システムの歪みが顔をのぞかせている。インテリジェンス機関としては、内閣情報調査室のほか、外務省国際情報官組織、警察庁の警備・公安部門、公安調査庁、防衛庁情報本部などがある。だが、内閣情報調査室に国際部が置かれてはいても、海外に情報収集要員を配置していない。在外のエージェントなき対外情報機関などありえない。英国の対外部門SISをまったく欠いているのと同じである。普通の国家としてのインテリジェンス体制が整っていないのである。安倍新総理はそれゆえ新たにCIA型の情報機関の創設を提唱しているのだ。

イスラム過激派やイラン・シリアと北朝鮮との接近が指摘されるなか、日本でも一層のインテリジェンス機能の強化が求められている。〇六年夏には、自民党の検討チーム(座長・町村信孝元外相)が「日本も英SISや米CIAのような対外情報機関を創設すべきだ」という提言を発表。民間のシンクタンクからも首相直轄の「国家情報局」の設置が提起された。

だが、日本のインテリジェンス機能の強化を「対外情報機関の創設」に収斂させてしまってはならない。いくら立派な建造物を建てても、情報システムが機能する保証はないからだ。

私はかつて、内閣官房長官を務める有力政治家からインテリジェンスについて尋ねられたことがあった。聞けば、毎朝、議員宿舎に関係の機関から「情報ファックス」が送信されてくるという。官房長官は、生真面目にそのすべてに目を通していた。だが、本当に価値ある情報なのか、チェックしてほしいというのである。一読して、驚いた。私は即座に、「これらは全て塵芥の類です。有事に備えて十分に睡眠をとられるほうがよほどいい」とお答えした。

インテリジェンスをダメにする省庁の壁

私は日本の情報収集システムについて絶ちがたい疑念を抱いている。なぜ、内閣の要である官房長官にすら塵芥のような情報しか挙げようとしないのか。挙げるに足る情報がそもそもないのか。問題点をひとことでいえば、関係の省庁に横たわる「機密の壁」がすべてだ。すなわち情報の統合に省壁が立ちはだかっているのである。たとえば外務省は、在外公館を通じて海外情報を収集している。外務省は、自らの政策立案にそれを使っても、一級のインテリジェンスは他の官僚機構には渡そうとしない。防衛庁や公安警察もまた同様なのである。機密の度合いが高い情報ほど秘蔵されてしまう。どんな情報を機密扱いにするのか、その判断は各々の官僚機構が独自に行っている。その果てに、首相官邸にすら、重要情報が報告されないケースが出てきてしまう。

英国にすべてを学べ、などという気持ちは少しもない。だが、英国にはJIC(合同情報委員会)という組織があり、SIS、MI5のほか、政府通信本部、国防省情報部のトップと外務・連邦省、国防省、内務省、警察の次官級高官で構成されている。そこに四〇名ほどの、精鋭の情報評価スタッフが揃っている。彼らには各省庁のインテリジェンスへのアクセス権が保証されている。これこそが問題の核心である。玉石混淆の膨大なインテリジェンス報告から首相に報告すべき価値ある情報を入手し選別する。そして「評価報告」の筆を執る。それを合同情報委員会のメンバーが精査して、国家の舵取りに資すると判断された情報のみが内閣の主要メンバーに直接報告される。

日本には、まずこの評価スタッフに該当する専門家がまったく存在しない。英国と同じように内閣官房副長官が主催する隔週の合同情報会議が開かれてはいる。だが、あくまで非公式な連絡会議にすぎない 【*2】 。インテリジェンスを統合するプロセスが明確化されていないのである。

英国JICとのもっと大きな違いは何か。合同情報委員会のメンバーが、警備・公安情報や外務省情報にアクセスしようとしても、“省壁”に阻まれてしまう点である。この省庁の機密障壁をそのままにして、関連省庁から出向者を集めた「対外情報機関」を創設しても、水準の高いインテリジェンス機関に脱皮する保証はない。日本のインテリジェンスの強化を根本から見直したいのなら、新しい器をつくるより、まず“省壁”を取り払う方策を議論すべきだろう。

なによりインテリジェンスを担う人材を養成するには、膨大な時間とお金がかかる。そのうえ、国家のインテリジェンスに携わる人は、たとえ立派な仕事をしても、その成果や功積は公に知られることがない。家族にすらその仕事の意義は理解されない苛烈な仕事なのである。どんな状況にも耐えられる強い精神力と、品格を持っている者だけが、インテリジェンスを担うことができる。国益よりも省益を優先する官僚組織とは、対極に位置する仕事なのである。

インテリジェンスに同盟なし

インテリジェンスの世界に同盟なし。古くから言い伝えられてきた教訓だ。それに従えば、日本も同盟国米国に過度に依存してはならない。独自の情報能力を高める志を持たなければならない。米英のような血で購ったといわれる関係でさえ、英国はインテリジェンスで米国に先んじようと励んでいる。独自の情報収集能力を高めることは、日米同盟の質的強化にむしろ貢献する。インテリジェンスの世界では、基本的に情報は等価で交換される。米国と競うことがむしろ好ましい。こちらが質の高いインテリジェンスを持っていてこそ、相手も相応の情報を提供してくるだろう。

残念ながら、現実はこうした理想から程遠い 【*3】 。日本は、耳の長いウサギを目指さなければならない。そのためには機能の優れた情報収集衛星を多数打ち上げなければならない。そうすれば、米国からも価値ある情報を引き出せる実力が備わってくるはずだ。

日本は、インテリジェンスの面で潜在的に高い能力を持っている国だと確信している。明治期には、日清、日露という戦争を経験する一方、外交面では高度なインテリジェンスを保持していた。戦後、そのDNAが失われてしまったのは、安全保障の多くを安易に米国に依存してきたからである。過去、半世紀はそれでも生き抜けたのだろう。だが、これからの半世紀は、情報能力なくしてはとうてい生き抜けまい。日本人の血に流れるインテリジェンスの遺伝子をいま一度呼び覚ますべきときが迫っている。


●脚注

*1 監視下に置く
監視した人物については、電話やメールを傍受し、捜査チームが長期にわたって大がかりな追跡をおこない、さらにはダブルエージェント(二重スパイ)まで放っている。地下鉄・バス爆破テロ事件の捜査で監視・拘束した約一〇〇〇人のイスラム教徒の中から内部通報者を見つけ出していった。その一方でSISは、パキスタン軍情報部と連携しながらテロ計画の主犯格の動きを炙り出した。容疑者グループの一斉検挙は、そうした危うい諜報活動の末に初めて可能だった。

*2 非公式な連絡会議にすぎない合同情報会議
メンバーこそ内閣危機管理監、内閣情報官、公安調査庁次長、防衛庁防衛局長、防衛庁防衛局次長、外務省国際情報統括官、警察庁警備局長で構成されているが、議事録も作らず、情報の評価もしていない。

*3 理想から遠い日本の情報収集能力
九八年の北朝鮮のテポドン打ち上げを契機に、日本は独自の情報衛星を打ち上げた。このとき、米国は衛星打ち上げには同意したものの、そのスペックについては自国と同等のものとなることを認めようとしなかった。

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