手嶋龍一

手嶋龍一

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「芸者とはなんぞや その真髄お教えします」(座談会:石川英輔氏、岩下尚史氏)

本誌 今年は、新橋の花柳界が誕生して百五十年だそうです。そこで本日は、なかなか知ることのできない「芸者」の世界についてお話いただきたいのですが、そもそも芸者という存在は、いつごろから出てきたのでしょうか。

石川 いろいろ諸説はあるんですけど、さかんになってきたのは元禄期です。

手嶋 元禄期は、当時の世界を見渡しても、これほど華やかで文化水準の高い街はなかったでしょう。石川さんが、江戸の飾り職人の親方に生まれていれば、こんな幸せはないと言われるのも頷けます。そうした時代が芸で身を立てる芸者衆を生んだのですね。

石川 ええ。廓の外の、いわゆる町芸者に関しては、元禄年間に、菊弥という歌の名手が宴席に出て歌を聞かせるということを深川で始めて、これがはしりになったと言われています。

岩下 吉原芸者は、お客と遊女の取り持ちが主ですから控えめですが、ほかの町芸者たちはもっと積極的だったんでしょうね。

石川 江戸には、おおまかに言って三種類の芸者がいて、一つは吉原芸者、これは唯一の官許の遊里 で、芸専門、そして吉原の外に出ることはない。二つめは深川の辰巳芸者で、色と芸の二枚看板。柳橋芸者の前身です。それから、吉原と辰巳以外の町芸者。

岩下 江戸時代、公に芸者と名乗っていいのは吉原だけで、ほかは自称の「芸者」で、いわばもぐりなわけですよね。

石川 そうですね。中には、色を売るのみの女郎もいるし、建前だけでも「芸だけを売る」という専門の芸者は、吉原だけでした。

岩下 町芸者の中には、三味線や長唄の女師匠が、呼ばれればお茶屋にも上がって相手をした例もあったでしょうし、芸者と言って も、なかなかひとくくりにはできないものですね。

石川 吉原芸者以外は、移動も自由だし、なんでもできたんです。現代のOLさんと一緒ですね。あと、芸者のことを「左褄」と言うでしょう。あれは、伝票の受け渡しやら、物の受け取りやら、芸以外に事務的な仕事もしなきゃならなかったから、利き手を空けていたためなんです。

岩下 それと、芸者にとっては、三味線を弾くというのが必須科目でしょう。

石川 ええ。江戸時代には、芸者の役割は現代のカラオケでしたからね。この時代の宴会は、中規模になると必ずBGMが入るので、三味線を弾くのが芸者の役目だった。

岩下 お茶屋なり船宿なりが一軒でもできれば、そこに出てお酌をしたり、三味線を弾く人が必要になってきますから、自然発生的に増えていくわけです。

手嶋 そうしたなかで芸を競うのですから、生き残っていくには、芸の力が必要だったのでしょう。

岩下 石川さんにお伺いしたかったんですが、先ほどお話に出てきた辰巳芸者は、別名で羽織芸者とも言うように、羽織を着て男言葉を使ったり、かなり男に近い姿ですよね。

石川 実際には、羽織姿の芸者を描いた図というのは極めて珍しいんですが、男っぽく振る舞うというのが芸者たちに受けた時期もあったんでしょう。

岩下 察するに、男っぽくふるまって、男から言い寄られてもはねつける、というのも一つの商法だったのではないでしょうか。

石川 そうでしょうね。

岩下 拒むということが一種の魅力で、それは今でもそうですよね。手嶋さんは、よくお座敷でお遊びになっていらっしゃるからおわかりでしょうけど。

手嶋 過去十数年は島流しにあって寂しい海外の暮らしを強いられていましたから(笑)。江戸の芸者衆は、かなり自由で力があり、社会にも影響力を与えていたのだと思います。

石川 辰巳芸者の言葉が、東京の女子学生の言葉の原型にもなっています。話し言葉で「……だわ」というでしょう、あれはもともと、辰巳芸者の言葉らしいですよ。

岩下 今でも使われていますよね。でも、はっきりした資料が残っていないので、実態は随筆などから想像するほかないんです。

石川 一級資料がないですからね。江戸時代には、今でいう歌手・タレント・女優、さらに酒の相手まで全部兼ねている人を女芸者と呼んでいたようです。

岩下 芸者は、昔はそれこそあちこちにいましたから、珍しい存在ではなかったわけです。今東京で芸者が残っているのは、新橋、赤坂、浅草、葭町、神楽坂、それから向島……。

手嶋 かつて織物の町として栄えた八王子にも残っているそうです。

岩下 新橋のお座敷がいちばん盛んだったのは、明治の末あたりですね。昭和以降の新橋を見てますと、かつての吉原芸者の姿に近いように感じます。落語や歌舞伎に出てくるような、女の「意気」や「張り」を売り物にするのではなく、芸だけを売るという。

石川 芸者と呼ばれていた人々が、歌手やホステスに細分化されて、本来の芸者という存在がだんだん薄くなると、芸者が芸者であるためには、やはり芸のみを売るという吉原芸者が理想になると思いますね。

岩下 花柳界は、公的な接待と、気の置けない友人同士で行くという、二つの遊び方があります。昔は、端唄や小唄をお客が知っていたし、知らなければそこで芸者が教えて、覚えたお客はまたその芸を別の座敷で披露する……というふうに遊んでいたわけです。でも、それはだんだん二義的なものになってきまして。

手嶋 昭和以降は、大きな料亭は政財界の公的な接待に使われることが多くなったようですね。

岩下 今新橋などで遊ぶときは、芸は芸者がするんですが、少し前までの下町の花柳界では、気軽に遊びに行って、芸者さんの伴奏で自分が歌うという、旦那衆の個人的な遊びというのがありましたね。

石川 今でも、金沢に行くと、その旦那衆の遊びをやっていますよ。皆さん、ほんとうに芸達者で。

岩下 そうなんですってね。手嶋さん、よく金沢にいらっしゃるらしいので、ご存じでしょう。

手嶋 いえ、僕はあまり嗜みがありませんから、東の茶屋街でお座敷太鼓(芸者の弾く三味線に合わせ客が打つ太鼓の意)を少々。でもしんとした茶屋で虫送り太鼓を打つのは心躍るものがあります。

岩下 手嶋さんのようなインテリの方でも楽しいんだから、よっぽど楽しいのだろうと思います(笑い)。

手嶋 客も芸をともにすると座は盛りあがります。若い頃ぼくらをお座敷に連れて行ってくれた旦那衆は、必ず余興を女将に頼んでくれました。これぞ宴席の真髄と無言で教えてくれたのでしょう。

岩下 その余興というのは、明治の末に、新橋が始めたらしいです。それまでは東京のお座敷は、お客が頼もうが頼むまいが、芸者がいれば「お座付き」と言いまして、長唄だったり常磐津だったり、曲の中でいちばんにぎやかなところを芸者がずらっと並んで弾き唄いするんです。

石川 そうですね、その光景を描いた浮世絵も残ってます。

岩下 それを新橋が、ブランド化を狙っていたのでしょうが、昔は芸者はなんでもできなくちゃならなかったのを、長唄は長唄、常磐津は常磐津と専門化しまして、家元を呼んでお稽古させて、余興というプログラムをつくりまして。こういう流れを、たちまち東京中の花柳界が真似をして、今のような状況になったそうです。

手嶋 わが小説『ウルトラ・ダラー』の主人公、英国秘密情報部員は、誰も手がけたことのない新橋のお座敷にすっと入り込みました。機密が外に漏れないお座敷は、インテリジェンス世界と二重写しになって魅力的だったのです。

岩下 花柳界というか、料亭のような場所は、外国には一切ないんでしょうか。

手嶋 料亭の女将がすべてを取り仕切り、客の機密を知っていながら決して漏らさない。これはもうインテリジェンス・ワールドです。世界に冠たると申し上げていい。女将の口の堅さは、かつての特捜検事と双璧でしょう。

石川 なるほどね(笑い)

手嶋 和やかなお座敷では、お客も女将も芸者衆も、外からは窺い知れないほど対等です。ここで交わされたやりとりが経営刷新のきっかけになった具体例を目撃しています。これほど優れた文化の土壌は、ずっと残しておいてもらいたいと心から思います。

岩下 ねえ、今は、昔と比べてたいへんに衰微しておりますので、なくなってしまうと惜しいし、東京から芸者がいなくなったらつまらないと思いますね。やはり、江戸時代以来の大きな名物でございますからね。

手嶋 僕もそう思います。一流の芸者衆は、なんでも心得ていてじつに頼りになる。かの伝説のスパイ、リヒャルト・ゾルゲやフランス人特派員、ロベール・ギランといった人々が、東京に暮らしていた戦前から戦中のこと。新橋から銀座界隈は、彼らのパラダイスでした。毎日が楽しく刺激的で、当時、こんな場所は他にはブエノスアイレスくらいでしょう。(笑い)。

石川 本当ですか(笑い)。

手嶋 気が利いて、心優しく、気っぷがいい。そんな芸者衆に溢れていましたから。実際に交友があった、いまや故人となったお姐さんから話を聞いたことがあります。

岩下 長い間かかって、つくりあげてきた場所ですよね。

手嶋 ええ。だとすれば、消え行くのはなんとも惜しい。わがスパイ小説の英国秘密情報部員ですらそう言っているのですから。

岩下 お座敷で遊ぶと言っても、接待で行く場合は、男の人たちにとっては仕事ですね。

手嶋 花柳界というのは、そのときどき政財界を動かす人々が出入りします。その意味で現代史が通り過ぎていく舞台といってもいい。そんな場所でリーダーたちがどう振る舞い、芸者衆とどう付き合うかを次の世代は垣い間見て、あるべき姿を受け継いでいく。花柳界とは、男の人生に彩を添える劇場でもあったのです。

岩下 花柳界は本当は、若い人たち、これから出世する人たちこそをお客に迎えなきゃならないのに、ここ十年は、ちょっと花柳界も反省しなくちゃならないように思います。土地が発展するときは、必ず新興の勢力を迎え入れているわけですからね。新橋が明治の末に花柳界の中で一等地になれたのは、明治政府の新しい財界人、三井財閥の人たちをお客さんに迎えたからですから、やっぱり今の力のある方たちを迎えないと、花柳界には明日がないように思うんです。

手嶋 そうなれば、若者はお座敷に育てられ、世界に通用する紳士になるでしょうね。あのヒルズ族の人たちも、女子アナとの合コンなどせずにお座敷に来てみたらよかったのに(笑い)。

石川 そうです、何十億という飛行機なんか買わずにね(笑い)。お座敷で遊んでいれば、彼らもきっと大人になれた。

手嶋 ぼくも、若い人にときおり聞かれることがあります。お座敷でどう振舞えばいいのかと。

岩下 私にもお聞きになる方がいらっしゃいますが、お客はそういう細かい所作を気にしなくていいと思うんですよ。お客に恥をかかせないために、芸者さんや仲居さんがいるわけですから。威張らずに堂々としていることが、大事なのではないでしょうか。

手嶋 大切なことです、威張らないというのは。ぼくは偉くないので威張る必要がありませんが、きちんとした大人で威張った人を知りません。威張らない。これは心しておくべき嗜みです。

岩下 卑屈というわけじゃなく、皆さん、周りに対する心遣いというものがおありでしたね。

手嶋 おそらく、大人にならなければ楽しくない人生というものがある。そういう意味で嗜みのある大人を育てる舞台として新橋は恰好の場所なのでしょう。

岩下 そうですねえ。

石川 都市型の裕福な男を大人にするには、学校や親のしつけだけではうまくいかないですね。やっぱり異性のいる空間じゃないと、男だけじゃなかなか大人になりきれないところがありますから。遊びといったってテレビゲームとかじゃなく、お座敷遊びを通じて大人になっていくわけです。

岩下 女の人が見てると、きちんとしないと恥もかきますからね。

石川 そうなんです。ええかっこしいになるでしょう。

岩下 やっぱり見栄を張る場所ですからね。柳橋の組合長さんの話ですと、昔は、宴会のときに社長さんの旦那ぶりを脇から秘書さんがずうっと見ながら覚えたそうです。その社長さんは、きっと芸者衆に自分のそういう姿を見せていたんだろうけど、自分のところの若い者にも、自分の旦那ぶりを見せて育てていたんじゃないかと思います。

手嶋 きっとそうですね。

岩下 芸者衆は芸者衆で、お座敷で芸を披露して、先輩が唄ったり踊ったりしながら、後輩に芸を見せている。これも、育てているわけです。ですから、お座敷というのは、男が男を磨いて、女が女を磨く場所なんだと思います。

石川 私は、花柳界というのは、ちょっと特別な感じがあってもいいんじゃないかと思います。私は日本橋の蛎殻町に住んでいるんですが、昔は近くに葭町の見番があってね。ぼくにはなじみのない世界だったけど、やっぱり憧れはあったし、ああいうところへ行って芸者さんと遊んだらおもしろいんだろうな、とは思ってましたから。要するに、そのへんのクラブに行く、という感覚じゃなく、神秘性があってもいいように思いますね。

岩下 芸者衆も、普段から髪を結って三味線を弾いてないと身につかないと思います。神楽坂では、若い芸者衆が自主的にそうしているという話を聞きましたけど、やっぱり余興のときだけじゃ、どうもサマにならない。

石川 そうなんですよ。

岩下 戦後の花柳界は、非常に近代化されてきてまして、それはそれでけっこうなんですけど、やはり髪型や衣装やら、少し昔のことを意識したほうがいいように感じます。今は、料亭もある程度マニュアル化されていますから、お客のほうも、ああいう遊びがしたい、こういうことをしたい、と、いろいろ注文をしたほうがいいと思います。

手嶋 ぼくのような、情報を扱う仕事をしている者からしますと、最後の真剣勝負は、やはり人と人、一対一のやりとりに行き着きます。そういう緊迫した場面でも、なごやかにことに処することができる。そんな舞台として新橋はこれからも生き続けて欲しいと思います。

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