手嶋龍一

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「内なる『国』を秘めて逝った孤高の牧場主」

私の仕事場であるコテッジの広い窓からは、冬枯れの放牧地が見渡せる。そこにはイヤリングと呼ばれる当歳馬が烈風にたてがみを躍らせて奔っている。天駆けるように疾走したディープインパクトも戦いすんで、生まれ故郷のここノーザンファームに帰ってきた。種牡馬サンデーサイレンスの最高傑作の血を求め、世界の名だたるオーナーが、ディープインパクトの種付けに名牝を送り込んでいる。

サラブレット王国を築きあげた吉田一族は、榎本武楊率いる幕府軍が函館の五稜郭で敗れ去ると、朝敵、南部藩から屯田兵として北の大地に移り住んだ。その開拓の物語は、トーマス・マンの『ブッデンデンブローク家の人々』を思わせるほど壮大である。荒れ野の開墾は徹底した反官僚の背骨に貫かれていたからだ。

ノーザンファームのオーナー吉田勝己の父、吉田善哉は、樽前山の火山灰地に覆われた不毛地帯を切り拓き、勁い競走馬を世に送りだしていった。その頃、隆盛を誇っていたのは、日高の馬産地だったが、善哉は決して足を踏み入れようとしなかった。かつて帝国陸軍の軍馬の育成地だった日高は、良質な牧草に恵まれた牧場の最適地だった。だが、そこには名門の牧場群が牢固としたギルドを築きあげ、中央競馬会と農水省が農政に名を借りた現代の小作制度を敷いていた。それは善哉にとって肌に蕁麻疹ができるほどおぞましい存在だったからだ。

だが、この牧場主は、反権力を標榜する常の農民運動家とは異なっていた。国家に抗うことで、国に財政資金をせびったりはしなかった。農業補助金という毒饅頭に手をつけなかったのである。息子が自宅前の敷地に麦を作って国に買い上げてもらったことに激怒した善哉のエピソードがすべてを物語っている。日高の牧場主であり、詩人にしてアナーキーストだった白井親平と親交を結んだのも決して偶然ではない。

その反骨のゆえだろう。一族の牧場経営は、波乱に満ちたものだった。一時は有力な種牡馬を抱えることができず、悲願のダービーを制したのは、善哉の生涯でたった一度きりだった。

その果てに善哉は、漆黒の名馬サンデーサイレンスと巡りあう。野性の血がたぎっているといわれたアメリカ・ダービー馬にすべてを賭け、日本に連れ帰った。その頃、善哉がポツリと私に漏らしたことがある。

「もう少し若ければ―。アメリカの牧場でもうひと勝負するのになあ」

互いに競いあう者たちに等しく開かれたアメリカの市場。この果てしなく広がる大地こそ、過酷だが、自由に溢れる革命の地なのだ―。善哉は、その類稀な直感で合衆国の本質を掴み取っていたのだろう。

真の社会革命はアメリカでこそ成就した―。ナチス・ドイツの迫害を国籍を喪うことで逃れたハンナ・アレントは、アメリカに亡命してこう喝破した。善哉の見立ては、ナチズムとスターリニズムの全貌を描き出した『全体主義の起源』の著者にも匹敵する知の輝きを放っている。

新らたな国家を創りだす現場に役人の介入を許せば、やがて巨大な官僚機構が頭上にのしかかってくる。全米に先駆けてアメリカ大統領候補に審判をくだすニューハンプシャー州の自立した農民はそう断じて譲らない。そんな彼らに真の革命家を見出したのは、善哉やアレントといった異端だった。政治の季節を迎えて、正統なる異端の系譜に連なる者たちはいま、われらが国家よ、よみがえれと叫んでいる。だが、実践のひとだった孤高の牧場王は「わが内なる美しき国」を胸に秘めたまま逝ってしまった。

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