手嶋龍一

手嶋龍一

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「危機の指導者 第4回 小泉訪朝 破綻した欺瞞の外交」

真野湾に浮かぶ灰色の船

真野湾の突端に佇んで眺める佐渡沖の夕陽は息を呑むほど美しい。その日も日本海を朱に染めながら水平線に陽が落ちようとしていた。夜の帳が迫り、漁船はそれぞれの港に引きあげていった。だが、灰色の船だけがぽつんと一隻。エンジン音をひそめたまま真野湾の奥を窺うように漂っていた。

緩やかな曲線を描く砂地の湾口には、佐渡を貫く国府川がゆったりと注いでいる。その川面に浮かぶ奇妙な舟が、母船と秘かに交信していた。長さは五メートルあまり。船縁に四本の棒を立て、ゴザをぐるりと張り巡らしている。船内を外の視線から遮っているのだ。

「莚旗を立てたような、乞食そっくりの舟だったちゃ。あれは地元の船じゃないとすぐ思った。あんまり妙なものだからいまもはっきりと憶えとる」

二〇〇二年九月十七日の平壌。小泉純一郎首相が渡された「日本人の行方不明者リスト」にその名がなければ、国府川の事件も闇に埋もれたままだったろう。土地の人々は、二十九年前のあの奇妙な光景を、はじめて拉致事件として重ね合わせたのだった。日本海を隔てて朝鮮半島から襲ってきたつむじ風は、佐渡に凶事を運んでいた。

旧真野町の町屋では夜でも戸締りをする家などない。それほどに長閑な一帯で予期せぬ事件が起きていた。一九七八年八月十二日の夕暮れ時だった。

曽我ひとみさんは、十九歳の准看護師として勤務先の病院から実家に戻っていた。お盆を迎える週末を家族と過ごすためだった。夕餉の団欒のあと、母親のミヨシさんと連れだって近くの雑貨店にかけている。その買い物の帰り道だった。自宅まであと百メートルの地点で足音に気づいてとっさに振り向いた。背後から男たちが迫ってくる。妖しい影は三人だった。あっと思った次の瞬間には、口を塞がれ近くの木陰に引き込まれてしまう。袋のようなものを頭から被せられ自由を奪われていた。

男たちに担がれ、国府川で待ち受けていた舟に運ばれていった。莚で周りを覆った舟は砂州をかわしながら真野湾を目指してひた走っていく。沖合いには、灰色の船が待ち受けていた。ひとみさんは袋に詰め込まれたまま船に積み込まれた。そして国籍不明の船は佐渡島を彼方に見ながら船足をあげ、遠ざかっていった。

船内で嗚咽し、息苦しさを訴えるひとみさんを扱いかねたのか、上甲板に連れだされた。 

「外の新鮮な空気を吸って落ち着きなさい」

女性が日本語でこう語りかけてきた。日本人ではない―。ひとみさんは、そのアクセントからとっさにそう思った。

やがて、ひとみさんは北朝鮮の招待所に収容された。日本語で話しかけてきたあの女性も付き添っていた。この工作員は「キム・ミョンスクです」と名乗った。招待所でテレビを一緒に見ていた時のことだった。画面にはクラッシック音楽の演奏場面が映し出された。

「あれ私の弟よ。有名なバイオリニストで、国際コンクールにも入賞したことがあるの」

その誇らしげなひと言が捜査の決め手となった。一九七八年のチャイコフスキー・コンクールで北朝鮮の若いバイオリニストが四位に入賞していたのである。「キム・ミョンスク」と名乗っていた女性工作員に、こうして逮捕状が請求された。容疑は「国外移送目的略取」。国府川沿いで曽我ひとみさん親子が姿を消してから二十八年目の遅れてきた逮捕令状だった。

だがあの日、ひとみさんと共に連れ去られた母親のミヨシさんの消息は杳としてわからない。

「日本人の若者を狙って拉致せよ」。

北の独裁者の指示だった。工作員たちはその命令に忠実に従って、四十六歳のミヨシさんを置き去りにしたのだろう。

ひとみさんは、母親の七十二歳の誕生を迎えてプレゼントを買い求めた。だが贈り物の箱を開けようとしない。中味を明かしてしまうと、ミヨシさんがすっと消えてしまいそうな気がするからだ。母ちゃんはきっと生きている―。

砕かれた情報の破片

曽我ひとみさんの身に突如襲いかかったこの不条理には、日本列島の海岸沿いで頻発した拉致事件に潜むあらゆる要素が凝縮されている。

犯罪から無縁の穏やかな一帯。そこでありふれた暮らしを営む若者。そんな彼らを音もなく連れ去って、現場には犯行を窺わせる手がかりを一切残さない。それは、豹が街中にすっと現れて、一瞬のうちに子供を銜えて去るさまを彷彿とさせる。

現代の神隠しとでも呼ぶしかない不可解な失踪。そこには公権力の影が見え隠れしていた。国家のテロリズムだった。巨大な鈎を天空からするすると降ろして人を吊り上げよ―。日本列島には北の独裁者の意匠が黒々と影を落としていた。だが戦後日本の常識を超える凶事のゆえに、地元の警察も、メディアも、そして被害者の家族も、闇に潜むその素顔に思いを致してみることができなかった。

北の独裁国家は、日本海の沿岸から九州にかけて、うっすらと足跡を残していた。北朝鮮の工作船がこれらの海域に出没し、工作員の名で呼ばれるスパイを秘かに上陸させていたからだ。警察庁の公安当局は、日本へ浸透してくる社会主義圏の情報関係者を執拗に監視していた。彼らを乗せた工作船の動向にも眼を光らせている。公安当局は、これら不審船から発信される電波を「KB」情報と呼んで傍受し、データの収集・分析に多くの人と捜査費を注ぎ込んできた。日本国内にひそかに潜入する北朝鮮の工作員を追跡し、朝鮮総連のどの担当者と接触するのかを知ろうとした。

公安情報はひたすら上層部に吸い上げられたまま、情報は現場で共有されなかった。ましてや地方の刑事警察に情報を分け与えたりしない。そこには公安組織の非情な掟が貫かれていた。

行方不明者など星の数ほど出ている―。警察はこう言い訳するが、不可解な失踪が起きると、沖合いには必ず不審船が出没していた。公安当局は、北の工作船が発する電波を傍受していた。だが情報を刑事警察や海上保安庁と分かち合おうとはしなかった。

曽我ひとみさんが佐渡で突然姿を消した前の年、同じ新潟県内で中学一年生が失踪していた。横田めぐみさんだった。バドミントンの練習を終えて帰宅する途中、友達に分かれを告げてまもなく、姿を消してしまう。警察犬がめぐみさんの臭いを失ったT字路の手前に私も立ってみたことがある。母親の早紀江さんが待ち受けていた自宅はすぐそこだった。日本海の香りが漂う現場に立ちずさんだまましばし立ち去れなかった。

総勢千人もの捜査員が動員されたのだが、手がかりらしきものすらなかった。しかし、このときも新潟沖には不審船が遊弋していたのである。日本国内に潜んでいた工作員が、母船に収容される直前にめぐみさんと遭遇し、帰りがけの駄賃のように拉致し去ったらしい。

膨大な捜査情報から気がかりな材料を選り分けて他の情報と突合せてみる。それによって事態の奥底に一条の光が差しこんでいく。だが、日本の巨大な公安警察組織は、情報の破片を抱えこんだまま、事件の核心に迫るインテリジェンスを死蔵させていった。

拉致・もうひとつの舞台

「ドイツの小さな町」といわれる暫定首都ボンに私が在勤していた一九九七年のことだった。ある日、自宅に分厚い郵便物が日本から届けられた。幾重にも梱包された封筒には「厳秘」の印が押された原稿が収められていた。『宿命 「よど」号亡命者たちの秘密工作』と題して出版されようとしていた原稿だった。刊行に当たって版元から書評を頼まれたのだが、あまりに機微に触れる内容のため厳しい情報管制が敷かれていた。著者のジャーナリスト、高沢皓司氏は、かつて「よど号」のハイジャック犯たちに連なる革命運動のインサイダーだった。独裁国家の策謀に巻き込まれ、加担してしまった自責の念に駆られ、逡巡の末に筆を執る。『宿命』で語られた数々の出来事は、公安当局をも震撼させずには置かなかった。

一読して、そこに暴かれている事実に深い衝撃を受けた。北朝鮮の情報工作部門は、「よど」号のハイジャック犯たちに日本女性と極秘の結婚をすすめていた。そして「夫妻」をヨーロッパの都市に派遣し、若い日本人旅行者を拉致せよと命じていたのだった。

新たな拉致事件の舞台となったのは、ロンドン、ザグレブ、ウィーンそしてマドリッド。彼らが張り巡らした蜘蛛の巣に絡めとられたのが神戸出身の有本恵子さんだった。北朝鮮が北欧に設けた活動の拠点コペンハーゲンで北朝鮮の旅券を渡されモスクワ経由で平壌に送り込まれた。

『宿命』の最初の読者となった私は、ジャーナリストとして自らに深く恥じ入らなければならなかった。北の独裁国家の犯行を予感させる出来事は自分の周囲にもいくつも転がっていたからだ。「よど」号グループの情報拠点だった横須賀のバー「夢見波」。アメリカ海軍情報部が追い続けていた東京湾の不審船。コペンハーゲンに張り巡らされていた北朝鮮外交官の免税品密売ネットワーク。IRA武闘派と連携して繰り広げられた偽札流通ビジネス。これらの情報の断片を結びつけ全体像を描き出す思考の跳躍力さえあれば、事態の深層に少しでも近づくことができたはずだった。当局の怠惰を責める資格はなかったのかもしれない。のちに横田めぐみさんのご両親、滋さんと早紀江さんにお目にかかった際、まず自らの至らなさをお詫びしなければならなかった。そしていつの日か、書き継ぐことでリターン・マッチをと自らに言い聞かせたのだった。

「ミスターX」という陥穽

ブッシュ政権は北朝鮮の体制転覆を狙っているのではないか―。金正日は猜疑心にさいなまれていた。二〇〇〇年の大統領選挙で共和党のブッシュ政権が誕生し、力の政策をひたひたと推し進めていたからだ。

こうした情勢のなかで、金正日は一枚のカードをそっと日本に差し出した。それが「ミスターX」だった。やがてカウンター・パートとしてあらわれたのが就任直後の田中均アジア大洋州局長だった。

小泉純一郎と金正日。ふたりはチェスのテーブルを挟んで一年余りにわたって、田中とミスターXという互いの駒を差しあうことになる。

北朝鮮は、田中均の性癖や交渉手法はもとより政界の人脈も知り抜いていた。一方の日本側は、北の独裁者が差し向けてきたこの人物について何のインテリジェンスも持ち合わせてはいなかった。英米の情報機関にも照会していない。この交渉チャネルをごく限られた者以外に知られまいとしたからだ。

この「ミスターX」の存在を知っているのは、総理官邸では、小泉首相、福田官房長官、事務の古川官房副長官。外務省では、竹内事務次官、田中アジア大洋州局長、平松北東アジア課長、後に加えられた川口外相だけだった。

「ミスターX」は外交官ではない。国防委員会に属していると自己紹介し、軍籍があることも窺わせた。だが詳しい経歴は一切を明らかにしなかった。

「ハングル(キム・チョル)」―。こう名乗っている。「金哲」や「金吉吉」という漢字があてられるが、そのことにさして意味はない。本名ではないからだ。本人が述べた所属組織も上層部の指示だったのだろう。秘密警察のひとつ、国家安全保衛部の要員だともいわれる。インテリジェンスの世界で生きる者は鵺のような存在なのである。

だが、たった一つ確かなことがある。

「ミスターX」は、金正日に近い立場にいた。これほど機微に触れる交渉を委ねられる者は最高権力者の選任によるほかない。

当時、北朝鮮当局に日本経済新聞の元記者がスパイ容疑で拘束されていた。日本側は無条件で釈放するよう持ちかけ、これによってクレディビリティ・チェックを終えたとした。だが、そうしたチェックを試みなければならないほど「ミスターX」について何の情報も持ち合わせてはいなかったのである。

日本側は「ミスターX」とで三十回を超す極秘の折衝を北京や大連で重ね、小泉、金正日が後に署名する「平壌宣言」を練りあげられていった。東アジアの安全保障地図を塗り替えるほど重要な外交折衝。それを正体も定かでない相手をただひとつの交渉チャネルとして進めていった。金日正は、チェス盤の全局面を見渡す立場に立ち、一方の小泉は「ミスターX」という回路を介してしか相手の出方を掴めない非対称の交渉だった。

外交にあっては折衝の相手をひとりで抱え込んではならない。どちらかが人事異動で交代してしまえば、交渉チャネルはそこで途絶えてしまうからだ。加えて、第二の交渉チャネルも周到に用意しておくべきだろう。交渉の縦深性を保って相手に操られる危険を避けるためである。「ミスターX」との折衝は、こうした外交の常道をいずれも踏み外したものだった。 

外務次官室の対決

二〇〇二年に入ると、小泉は大詰めを迎えた秘密折衝の報告を刻々と受け取りつつあった。

金正日は決着を急いでいた。それほどに国内の経済は危機の様相を深めていたからだ。二〇〇三年初めには国交を樹立し、少なくても総額一兆円の資金援助を―。日本側は、こうした要望を呑み込んでいた。「国際協力銀行」という打出の小槌を用意することで、彼らの要望に応える布石が打たれつつあった。だが、金額がどんな形であれ表に出ることはあってはならないと小泉から堅く申し渡されていた。拉致問題の先行きが不透明ななか、巨額の経済援助に世論は厳しい眼を向けることを政治家の直感で感じ取っていたのだろう。

二〇〇二年の七月末、ブルネイで開かれたアセアン地域フォーラムを機に日朝交渉は表に姿を見せ始める。両国は「この地域の平和と安定に資するために、国交正常化を可能な限り早期に実現」するとした共同声明文を発表し、八月中に国交正常化を協議する局長会談も設定した。

この声明文のトーンは従来のものとは明らかに違っている―。条約局の担当者が海老原紳条約局長のもとに駆け込んできた。確かに米朝の交渉当事者は何か大きな仕掛けで動いている―。異変を察したは海老原は、声明文を鷲づかみにしたまま、田中均をアジア大洋州局長室に訪ねて直に問い詰めた。緊張を孕んだやりとりが交わされ、田中は苦しそうに打ち明けた。

「実はあることを進めているのだが。条約局長の君には話さなければなければいけないと思っていたのだが。しかし、いまはちょっと―」

海老原には勘づかれてしまったようだ―。田中から報告を受けた竹内行夫外務事務次官は、谷内正太郎総合外交政策局長、藤崎一郎北米局長、海老原紳条約局長それに田中の四人を次官室に急遽招集した。八月二十一日のことだった。

竹内は首相の平壌訪問が固まったことを告げた。なぜこれほど重大な案件を秘密裏に運んでいたのか理解できかねる―。出席者たちの瞳の奥には疑念が燃え盛っていた。

沈黙が支配するなか「平壌宣言」の草稿が各局長に配布された。竹内と田中を除いて皆が初めて眼を通す文書だった。

「秘のまま折衝を進めたのは総理の強い意向だった」

竹内はこう弁明した。次官室はしばし重苦しい沈黙に包まれた。

谷内が田中に質した。

「この宣言には拉致という言葉がまったく書かれていないが、これでいいのか」

核心を衝かれた田中は、一瞬押し黙り、短く応じている。

「拉致問題については別途交渉していますから―」

拉致問題をめぐる田中と谷内の永く険しい対決がこの瞬間から始まったのだった。

条約局長は、外交文書の作成には最終責任を分かち合わなければならない。このため海老原の舌鋒は勢い鋭角的になった。

「宣言文には『安全保障にかかわる問題について協議を行っていくこととした』と日朝安保委員会の設置を謳っている。ならば、アメリカにはきちんと知らせてあるのですか。アメリカ政府抜きに安保協議は進むはずがない」

ブッシュ政権には一切知らせていないという。

「安保委員会を設けて議論するというが、これは順番が違うのでは―。不審船の問題もあり、やはりアメリカには知らせるべきではありませんか」

アメリカへは近く来日するアーミテージ国務副長官に次官から説明してもらうという。

海老原はさらにもうひとつの疑問をぶつけた。

「宣言には北朝鮮に過去の植民地支配に心からお詫びすると書いているが、村山談話は特定の国を相手に誤ったものではない。韓国には文書を出したことがあるが、中国の求めは拒んでいる。いまだ国交も開いていない国に誤って問題はないのですか」

田中は憮然として言い放った。

「いや、それについてはすでに総理のOKをとってありますから」

総理や官房長官とじかに取り引きし、政府部内の反対を押さえてしまう。そうした田中独特の手法は、普天間基地の移転以来のことだった。

すべて厳秘にと総理からいわれていると念が押され、次官室の協議は打ち切られた。

戦後の外交交渉でこれほど重要な文書が、直前まで条約局に諮られることなく、取りまとめられた例はない。日本外交にあっては、条約局こそ最後の砦であり、ゴールキーパーでもあったからだ。沖縄返還交渉も日中共同宣言も、担当の地域局は、交渉の相手国を説き伏せるだけでなく、難物の条約局をも説得しなければならなかった。それは単に政府部内のチェック機能にとどまらず、交渉に懐の深さを与えていた。

「この表現では条約局がどうしてもうんと言わない」

交渉担当者は相手国にこう告げて、しばしば譲歩を引き出してきた。だが日朝の秘密折衝では、条約局を完全に排除したことで「平壌宣言」は脆弱なものになっていった。

「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題は、(中略)今後再び生じることのないよう適切な措置をとることを確認した」

日本側は、このくだりこそ拉致を指していると釈明する。だが、今後は問題を起こさないと書いてあるに過ぎず、拉致被害者を救い出すなんの手がかりにもなっていない。

「金正日が拉致を謝罪したというなら、首脳会談の結果を受けた宣言文には、謝罪が明記されなければならない」

次官経験者のひとりはこう断じている。

交渉にとどめを刺した拉致情報

金正日との首脳会談に臨もうとしていた小泉純一郎のもとに衝撃的な情報が届けられた。北朝鮮の当局者から田中がついいましがた文書で通告を受けたのだった。

「拉致被害者の生存者は五名、死亡は八名」

小泉の表情は一瞬歪み、すっと色が引いていったように見えた。北朝鮮当局の文書では、亡くなったとされる八人の死亡日時も不自然を極めたものだった。だがこの時点で小泉はそうした問題点を詳しく知らされてはいない。

小泉の瞳の奥をのぞき見て、思わずぞっとした。あの日の光景を思い返すといまも鳥肌がたつと随員のひとりは言う。これほど悲惨な結果が待ち受けているのなら何故ここまでやってきてしまったんだ―。小泉の横顔は怒りに打ち震えているようにも感じられた。

やがて始まった会談で小泉が口火を切った。

「今しがた事務レベルの協議で情報が提供されたことに留意はする。しかしながら、日本国民の安全に責任を持つ者としてこの結果は大変なショックであり、強く抗議したい。ご家族の気持ちを思うといたたまれない思いだ」

金正日は小泉の話を黙って聞いていたが、直接的に答えようとはしない。小泉は畳みかけるように、生存者への面会を求め、拉致について明確な謝罪を要求した。そして死亡したとされた人々の詳しい情報を提供するよう強く促した。

ここで休憩が提案され、再び姿を現した金正日は次のように釈明した。

「特殊機関の一部の者が盲動主義、英雄主義に走ってこういうことをした。日本語の学習のため、そして人の身分を使って南に潜入するためだった。責任ある人々はすでに処罰された。これからは絶対にこのようなことはない。この場で遺憾なことであったことを率直にお詫びしたい」

小泉はじっと相手の顔を見つめたまままじろぎもしなかった。

「生存者はわずかに五人。死亡は八人」という悲惨な結果を誰ひとり予期していたものはいなかった。それは想像を絶する内容だったのである。このニュースは、直ちに日本に速報され、人々の憤りは波紋を広げていった。国内の世論は沸騰した。この時点で国交正常化に向けた交渉は推進力を失ってしまったのである。「ミスターX」のチャネルから、拉致に関する有力情報をまったく取れないまま、首脳会談に突き進んでしまった今次の交渉。そこに破綻の芽が隠されていた。

拉致をめぐる情報がたとえ手に入らなくても仕方がない。訪朝を決断してもかまわない―。小泉はつい見切り発車の形で平壌訪問に踏み切っていった。そして「平壌宣言」に自ら署名した。それが致命傷となった。北朝鮮側にとっては、国交が正常化され、日本から巨額の経済援助を引き出すことができればよかった。だが、訪朝で飛び出してきた衝撃的な拉致情報が日朝交渉そのものを破砕してしまったのである。

確かな拉致情報を引き出すことなく一国の総理を北の独裁国家に赴かせた交渉当事者たち。田中は訪朝前に国交樹立の見通しを尋ねられ。こう答えている。

「いや、年内には決着がつくでしょう」

亀裂広げる日米同盟

小泉首相は、最終段階まで訪朝の事実をアメリカのブッシュ政権に伝えようとしなかった。国務省に在って対日関係を取り仕切るリチャード・アーミテージ国務副長官が、日米戦略対話のために東京を訪れる機を捉えて訪朝を明かそうと考えた。公式発表のわずか二日日前。八月二十七日のことだった。

首相官邸を訪れたアーミテージとハワード・ベーカー駐日大使に小泉自らがこう切り出している。

「来月十七日に平壌を訪れようと思います。日朝は国交正常化交渉を始めることになります。われわれも核問題の重要性はよく承知していますので、アメリカ側と十分に協議しながら進めていきたい」

アーミテージは、北朝鮮の核問題については新たな展開が考えられるので十分な注意が必要だと釘を刺した。不吉な予告だった。陪席していた日本側の関係者はそう思ったが、アーミテージは踏みこもうとしなかった。

アーミテージ一行には、福田康夫官房長官も独自に接触して訪朝に何とか理解を求めようと試みた。だがアメリカの対応は氷のように冷たかった。自分たちでは判断しかねる。すべては大統領の判断だと取りつく島がない。

小泉訪朝を唐突に告げられたアーミテージは、溜池のアメリカ大使館にとって帰し、ワシントンに緊急連絡を入れている。それほどにネガティブなインパクトを持った通告だった。大使室のただならぬ空気が物語っていた。対日情報の責任者が呼びつけられ厳しい叱責を受けた。小泉訪朝の臭いも嗅ぎつけることができなかったではないかとアーミテージはき捨てるように言った。

アーミテージは、竹内との戦略対話の席上でも不快感を露わにした。

「これほどの重大事をこうした形で知らされるというのはどういうことなのか。北朝鮮の核兵器に対するブッシュ大統領の基本姿勢をよく承知しているはずだ」

朝鮮半島の有事に深く関わる小泉訪朝を内報しようとしなかった日本の対応を、同盟の作法を踏みにじるものと憤ったのだ。同盟を危機にさらすリスクを冒してまで何故アメリカへの内報をしようとしなかったのか―。事前にアメリカ側に伝えれば反対されると考えたのではないか。これがアメリカ側の見立てだった。

ワシントンで川口順子外相に何故と直接質してみたことがある。

「確かにアメリカ側にはぎりぎりまで知らせなった。でも、それで何かマイナスがあったのでしょうか」

日米同盟をめぐるこうした温度差こそ、アメリカが危惧したものだった。日本が永く国家の安全保障を委ねてきた太平洋を挟む同盟にはうっすらと亀裂が入り始めていたのである。

日米安保体制とは、朝鮮半島と台湾海峡の二つの有事に備える盟約である。にもかかわらず、朝鮮半島の安全保障に重大な影響をもたらさずにはおかない小泉訪朝をアメリカに直前まで伝えず、「平壌宣言」の骨子すら見せようとはしなかったのである。

「ブッシュ伝言」の粉飾

マンハッタンのパーク・アベニューに面した「ザ・ウォルドルフ・アストリア」の高層タワー。その三十五階に「プレジデンシャル・スィート」はある。その名が示すようにアメリカ大統領のマンハッタンの居室だ。平壌訪問をあと五日後に控えた小泉首相は、ここでブッシュ大統領と向き合っていた。二〇〇二年九月十二日のことだった。

楕円形のテーブルを挟んで向こう側にパウエル国務長官、ライス安全保障担当補佐官。こちら側は、川口外相らが着席している。小泉・ブッシュの友情は、キャンプデービット山荘の出会いから始まった。その絆の堅さを折に触れて垣間見てきた補佐官たちは、大統領の前で決して小泉批判をしない。

だが、その日の小泉・ブッシュ会談はどこか醒めた感じがあった。ブッシュの表情も心なしか硬かった。

小泉は、会談の冒頭で訪朝に触れ、北朝鮮を国際社会の責任あるメンバーに迎え入れたいと述べ、ブッシュの理解を求めた。

これを受けてブッシュは、北朝鮮との関係改善に向けた小泉の努力を支持すると応じたとされる。

「大統領から何か伝言でもありましたら―」

このときブッシュは、隣に座っていたパウエル国務長官に冷ややかな視線を投げた。君が応答しろ、と無言で促したのだ。パウエルが大統領の意を察して引き取った。

「われわれは、北朝鮮が核開発をいまだにあきらめていないとみられる証拠を握っています」

毅然とした物言いだった。大統領は表情を動かさない。プレジデンシャル・スィートにはひんやりとした空気が流れた。 

首脳会談を終えて両首脳の発言ぶりが記者団にブリーフィングされた。その記録によれば、ブッシュは「北朝鮮訪問を心から歓迎する。早く結果を聞かせてほしい」と訪朝に支持を表明したとされる。そのうえで、「首相訪朝までに、外相を通じて米国がもっている北朝鮮に関する情報を出来る限り提供する」と述べた。そのうえで「アメリカとしても対話の道を閉ざしていないと北朝鮮側に伝えてほしい」と伝言を託したことになっている。「ブッシュ大統領の伝言を北朝鮮に伝言」の記事が、在日アメリカ大使館経由でワシントンに伝えられると、ホワイトハウスの当局者から憤りの声が挙った。

「大統領は、日本の首相に伝言など託していない。日本側がメッセージを伝えると持ちかけてきたのは事実だが、大統領がそれに応じるはずなどない」

日本側が、大統領が小泉訪朝を支持していることを内外に何とか印象付けようと大統領発言を粉飾したのである。日米の同盟史上に起きてはならない事態だった。

ブッシュ政権は、この時北朝鮮が新たな核兵器の製造に手を染めているという極秘のインテリジェンスを掴みつつあった。この情報がいま少し確度を高めていれば、アメリカは小泉訪朝に待ったをかけていたかも知れない。小泉訪朝はまさしく紙一重のタイミングで行われたのだった。

新たな核開発の発覚

重大な異変があったな―。ホワイトハウスを永く取材しているとこう勘づくことがある。この建物がどこか緊迫した雰囲気に包まれるからだ。大切なインテリジェンスをホワイトハウス詰めの記者たちに気どられてはならない。どんなに経験豊かな補佐官たちもどこか硬さがあらわれてしまう。小泉訪朝の翌月がまさにそうだった。危機の十月と呼んでいいだろう。

中東地域の担当官たちは平常心を保っていたのだが、東アジアの担当者たちには張り詰めた様子が窺える。やはり平壌が震源地なのではないか―。米朝高官協議で何事かが起こったのかも知れない。懸命に探りを入れてみるのだが、大統領補佐官たちの口はいつになく堅かった。

ホワイトハウス特派員には、機密の所在がピンポイントでは掴めなかったが、危機は確かに持ちあがっていた。

「トップ・シークレット」と刻印された緊急電がホワイトハウスに入電していたのである。平壌を訪れていたジム・ケリー国務次官補が平壌の英国大使館の電信ラインを借りて変事を伝えてきていた。東部時間で二〇〇二年十月七日の夜のことだった。

北朝鮮は、九四年の「米朝合意」で長崎型核爆弾の原料となるプルトニウムを原子炉から抽出しないと約束した。ところが、ウランを濃縮して広島型核爆弾の製造を手がけている事実を認めたのである。

北朝鮮側は、初日の米朝協議ではせせら笑うように疑惑を否定して見せた。ケリーは、北朝鮮がパキスタン経由で買い付けた核関連物資の請求書のコピーまで示し、さらには中国企業と偽ってアルミ管をドイツの光学機器メーカーから輸入しようとしていた事実も突きつけた。アルミ管の高速遠心分離機は、濃縮ウランを製造するのに欠かせない。すべての核兵器製造を禁じた九四年の「米朝合意」に違反する重大な行為である。

翌日の協議には、姜錫柱第一外務次官が突如姿を見せた。だが、北朝鮮側の姿勢は依然として変らなかった。

「そんな指摘は、わが国に対するいわれなき侮辱だ」

激怒してみせ席を立って別室に消えた。ところが一時間ほどして、姜錫柱が再び姿をみせた。そして軍、党、外交部の総意だと前置きして、突如として前言を翻した。

「我々はウラン濃縮計画を持っている。それが何故悪いのか。米政府が北朝鮮を敵視する政策を改めない以上、北朝鮮は計画を遂行する権利を有している。それはアメリカへの抑止力だ」

この発言の背後には、金正日の意向が働いていることは明らかだった。

ブッシュ政権は、次回の日米首脳会談で、北朝鮮に核開発の中止を求める「日米共同声明」を発表したいと考えていた。日本を反核連携にがっちりと組み込んでおくためだった。それまでは新たな核疑惑を秘密にと考えていたのだが、上下両院の指導者に内報したことでメディアに察知されてしまった。そのため、先手を打って公表に踏み切ったのであった。十月十七日のことだった。

これを機に、日本でも拉致事件から核疑惑に焦点が移っていったようにも見える。小泉首相・福田官房長官・田中アジア大洋州局長のトリオが、それぞれの思惑を秘めて推し進めてきた対北朝鮮外交は、「拉致被害者八人死亡通知」の衝撃によって国内の世論が憤激し、すでに破綻しかかっていた。拉致問題で日朝の正常化交渉が潰されてしまえば、外務省は詰め腹を切らされてしまう―。そう判断した外務省の竹内と田中は、新たな核疑惑が持ちあがると、にわかに強硬姿勢に転じていった。それは外交官特有の自己保身でもあった。核疑惑が原因で日朝交渉が止まるなら失敗の矛先を何とかかわすことができる。

彼らは日米同盟をないがしろにして暴走しながら、対北朝鮮外交の失態を新たに浮上した核疑惑ですり抜けようとしている―。ホワイトハウス高官はそんな日本の外交当局に不快感を露わにした。

核疑惑と前後して、拉致被害者の生存者五人が、ようやく祖国の土を踏んだ。二〇〇二年の十月のことだった。この五人は一時帰国の形で日本に帰ってきたため、彼らを再び北朝鮮に返すかどうかをめぐって政府部内で烈しい論争が持ち上がった。その舞台は、首相官邸の官房副長官室だった。

「拉致は犯罪そのものであり、日本政府の意思として五人を再び北朝鮮の手に渡さないと言い切るべきです」

頑として譲らない強硬派。

「いま残留を決めれば、北朝鮮側と築きあげてきた信頼の糸がぷつんと切れてしまう」

こう主張する宥和派。

論争に止めを刺したのは議論に黙って耳を傾けていた官房副長官補に転出していた谷内正太郎だった。

「五人は北朝鮮当局によって拉致された被害者なのです。ならば、人道上はいうに及ばず、国際法のうえからも責任解除のために原状回復が速やかに行われなければなりません」

他国に主権を踏みにじられながら、国家としての責任を明らかにしようとしないなら、日本という国は国際法に言う主権国家としての最低の矜持すら持っていないことになる。それでは国際社会から侮られてしまう。本来なら日本は北朝鮮に損害賠償や責任者の処分を求めるべきなのだが、それがかなわいなら、拉致被害者の現状回復は主家国家として断じて譲れない。

こうして五人の残留が決まった。

この論争こそ迷走を続けた日本の対北朝鮮外交のターニング・ポイントとなった。

消されてしまった交渉記録

田中均チームとミスターXとの交渉は、北京で、大連で、平壌でと、前後三十回以上にも及んでいる。だが、現地からは一通の公電も発出されていない。交渉の中味を知りうるのは、首相、官房長官、事務担当の官房副長官、外相、外務次官、アジア大洋州局長、北東アジア課長に限られていた。機密保持のためとして政府部内には一切の記録が残されていない。

「国家の命運を左右するこれほど重要な交渉の記録をわれわれは絶えていちども眼にしたことがない。それゆえ、今次の日朝交渉は、多くの問題を孕みながらも、いったい何が起こったのか、それを検証する手立てすらないのが実情だ。それゆえに、交渉当事者の恣意的な説明がいまもまかり通っている」

条約局にあって「平壌宣言」にかかわった担当官はこう語っている。

外交は公電となって初めて歴史に刻まれていく。たしかに公電にできないほど機微に触れる情報もある。だが志のある外交官なら、交渉の記録だけは残しておく。それは外交を国民から委ねられた者の責務なのである。それらの機密文書は三十年の後、機密の封印が解かれて史家の手に移り、歴史として記述される。そうして外交は歴史の公正な裁きを受けることとなる。

現代史の重要な一頁を飾るべき日朝交渉の公電は処分されたのではない。交渉当時者が、そもそも記録に残そうとしなかった。少なくとも外交当局に提出しようとしなかったのである。

機密の度合いがあまりにも高いため、電報という形では残さず、「事務連絡」や「覚え書き」の形で記録されることは確かにある。いずれも文字に刻まれた形で歴史の真実はひとつひとつ紡がれていく。

だが「ミスターX」との折衝に限っては、そうした記録も残されていない。交渉の経緯は一切を極秘にという首相官邸の意向を受けたものだと釈明しても、この異常さを後世に説明できる根拠など何処にも見当たらない。 田中真紀子外相の更迭で支持率が落ち込んでいた小泉内閣は、独自外交の花火を夜空に高く打ち上げることで、人気を挽回しようとした。こうした政治の思惑を知る外交官たちは、訪朝カードを小泉にそっと手渡したのだった。それによって世論の批判を浴びていた外務省の復権を果たそうとした。長期の国益を何より優先して行われるべき外交が、世論や省内の事情によってかくも歪められていったのである。

こうした外交の失態は「平壌宣言」の取りまとめの過程に色濃く投影されている。この宣言は誇らしげにこう記述している。

「双方は、朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため、関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した」

金正日がこの宣言に自ら署名していたまさにその時、濃縮ウラン型の核爆弾の製造を手がけていた。 「双方は、核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した」

そのうえで宣言は「ミサイル発射を二〇〇三年以降も凍結する」とはっきりと約束している。

にもかかわらず北朝鮮は、二〇〇六年七月、アメリカ独立記念日に狙いを定めて、七発のミサイルを日本海に相次いで発射したのだった。

そして二ヵ月後、日米両国だけでなく、中ロ両国もいつになく厳しい口調で平壌に警告を発するなか、金正日はついに核実験のボタンを押すことを命じたのだった。

こうした核とミサイルをめぐる危機は「平壌宣言」の署名時にすでに兆していた。日本が「平壌宣言」に引きずられて国交を樹立し、巨額の経済協力に踏み込んでいれば、日本からの財政支援は北の核開発の原資となっていただろう。

日本を射程に収めた核の刃を日本自らが磨く結果を招いていた。少数の外交官による恣意的な交渉は、深い谷の淵までわれわれを

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