「危機の指導者 第2回 周恩来とキッシンジャーの握手」
ライス発言の真意
外務省の飯倉公館に姿を見せたコンドリーザ・ライス国務長官は、いつになく艶やかだった。品のいい淡い紫のドレスに長身を包み、いつもより鮮やかに見える紅をくっきりと口元に引いて、麻生太郎外相と揃ってカメラマンの前で笑みを見せた。真っ白な歯がカメラのライトに映えて輝いた。
朝鮮中央通信が「核実験を行った」と公表してわずか一週間語に、ライス国務長官は日、韓、中、ロの関係四カ国を相次いで歴訪し、その最初の訪問地に東京を選んだのだった。十月十八日のことであった。外相会談に臨んだライス国務長官は、冒頭で麻生外相が「日米の安保体制をより有効なものとするため両国の連携をさらに強めていきたい」と述べたのを引きとってこう言い切った。
「安倍総理が中国と韓国を相次いで訪問され、両国との関係改善を図っているまさにこのタイミングを計るように北朝鮮が核実験を行ったのは驚きと言うほかない。アメリカは日米安保体制をめぐる日本の防衛に対するアメリカの揺るぎないコミットメントを確約したい。日米同盟の抑止をあらゆる形で履行することをお約束する」
米ソ冷戦の時代にすら、日本やドイツなどアメリカの同盟国の間には、敵の攻撃にさらされたとき、同盟国アメリカは果たして自分たちを本当に守ってくれるのかという疑念が消えることはなかった。それだけにこのライス発言はいかなる時代の安全保障のコミットメントより明確なものだといっていい。
麻生外相は「そもそもあのひとことを引き出すためにアフガニスタンにしろ、イラクにしろ、日米同盟の立場を貫いて営々と努力をしてきたんだ。あのひとことにはとてつもない重みがある」と感慨をにじませて、筆者に語っている。
「抑止力」というキーワード
ライス国務長官は、会談を終えて麻生外相と連れ立って姿を見せた記者会見でも、念を押すようにこう語っている。
「アメリカは、日本のために提供している日米同盟の抑止力を、全面的に、いいですか、繰り返しますが、全面的かつ完全な形で履行していくことをお約束します」
ライス国務長官が使った「抑止力」という言葉にはさまざまな意図がこめられている。安全保障という概念には本来「矛」と「盾」というふたつの意味が内包されている。冷戦期の米ソ両大国による核の対決を例にとって考えてみよう。米ソが核ミサイルで相手に先制攻撃を仕掛けることは文字通り核という「矛」を使うことを意味している。これに対して敵が核という名の「矛」に手をかけることを思いとどまらせるために、圧倒的な反撃の能力を備えておくことが「抑止力」だと説明されてきた。このように敵を先制攻撃の誘惑にかられないようにするためには、敵が刃に手をかけたときには直ちに軍事力を発動するという意志と能力が常に担保されていなければならない。
ライス国務長官は、北朝鮮の核実験という重大な事態を捉えて、北の独裁者が同盟国日本を攻撃するようなことがあれば、反撃をためらわないというアメリカのコミットメントをことさら強調することで「日米同盟の抑止力」にいささかもかげりがないことを鮮明にして見せたのだった。したがって、このライス発言は、自ら進んで「矛」を抜かないことを言外に滲ませているといっていい。北朝鮮に対して全面的な先制攻撃を仕掛けたり、外科手術的な空爆を敢行したりはしないことを意味していると受け取っていいだろう。
同時にライス発言は「日米同盟の抑止力」が万全だと表現することで、アメリカは核の傘を同盟国日本にかざし続ける意志を明確にした。それを通じて、日本の保守政界から噴出した核武装の論議をけん制したと見ていいだろう。
麻生外相はこんな言葉を漏らしている。
「当然のことながらアメリカにとって、日本の核武装は、その国益にかなうものではありません。これは私の推測なのですが、この後、中国を訪れたライス国務長官は、中国の唐国務委員と会談した折、『日本が核をもったらアメリカも困るが、中国も困るのではないか。そうした事態を招かないためにも共に北朝鮮には強い姿勢で臨もうではないか』と話し合った可能性がある」
麻生外相は慎重な言い回しで「推測だが」と述べているのだが、何らかの形でライス・唐会談のやり取りをインテリジェンスとして耳にしたのだろう。核大国日本の台頭を米中が共同で抑えこむという構図がほのかに浮かび上がってくる。
日本核武装をめぐる米中の本音
「アメリカ政府は、第一に、日本の核武装に反対します。第二に、日本の通常兵力が、日本列島を防衛するために十分な程度に限っておくことが望ましい。第三に、日本の軍事力が、台湾や朝鮮半島など周辺地域に膨張していくことに反対します」
これに対して中国側は次のように応じている。
「もしアメリカ側が日本の核武装を望まないというのなら、アメリカが核の傘をいわば盾として日本にかざし続けるというわけですね」
「そう、アメリカの核の傘は、本来、日本列島に向けた核攻撃に備えてさしかけられるものです。アメリカがそうしなければ、日本は、核兵器を極めて短期間にしかも迅速に造りだす能力を持っているのですから」
この米中のやり取りを、中国の胡錦涛政権とアメリカのブッシュ政権のやり取りとして聞いても少しの違和感もないだろう。だが、このやり取りは、いまからちょうど三十五年前、運命の一九七一年の秋に北京で交わされていた。
この北京会談では、ひとたび決意すれば短期間のうちに核兵器を保有する潜在能力を持っている日本をめぐって米中両国がひそかなに意見をやりとりしていた。
目覚しい経済的な台頭を遂げつつあった日本をどう見るのか、驚くほどに率直な本音が語られていたことを極秘の会談記録は示している。
台頭する極東の経済大国をめぐって、警戒感を露にする米中両国の日本への見立ては、二〇〇六年の国際政局と微妙に重なっていないだろうか。
アメリカ側の発言者は、ヘンリー・キッシンンジャー国家安全保障担当特別補佐官。対する中国側の発言者は、中国国務院の周恩来総理。
キッシンジャー補佐官は、東アジアからアメリカが撤退すれば、やがてその真空を日本が埋めることになろうと次のように述べた。
「日本人が本当に在日米軍基地の撤退を望むなら、アメリカはいつでも撤退します。とはいえ、実際にそうなったとしても、あなた方は喜ぶべきではありません。いつの日か後悔することになるでしょう。ちょうどわれわれが日本を経済的にこれほど強くしてしまったことを後悔しているように」
こうして中国側の恐怖心を存分に煽り、日米の安保体制こそミリタリー・パワーとしてたち現れる可能性を秘めた日本を抑止する決め手なのだと懸命に説得し手いるさまが窺われる。
「もしアメリカが東アジアから撤退してしまえば、日本は原子力の平和利用を通じて、すでに十分な原爆に供するプルトニウムを保有している。このため、いとも容易く核兵器を製造することができるでしょう。それゆえに、アメリカの撤退に日本がとって替わるのは、断じて望ましくない。日本の核武装にはどうしても反対なのです」
これを受けて、周恩来総理が「アメリカによって日本の自衛力を制限することができると考えておられるのか」と質したのに対して、キッシンジャー補佐官は「現在の対日関係のあり方のほうが、日本の自衛隊を制御するのに有効だと考えている」と、日米安全保障体制こそ軍事大国としての日本の台頭を抑止する最も有効か手立てなのだと畳みかけている。
そして、キッシンジャーが「日本が中立化を目指すことになれば、その結果は重武装国家ということになろう」と指摘し、一般の印象とは異なり、スェーデンやススがどれほど厳重な軍備を強いているかを説いている。
これに対して周恩来総理は「あなたの言われるとおりだ。アメリカの制御がなければ日本は暴れ馬となるだろう」と応じ、日米安全保障体制を暗黙のうちに容認するニュアンスを滲ませたのだった。
ここで周恩来総理は、核心を衝く質問をキッシンジャー補佐官に浴びせかけた。
「最終的なアメリカ側の目標が韓国から在韓米軍を撤退させることなら、兵を引く米軍のあとを日本の自衛隊で埋めることをあなた方はお考えなのでしょうな」
キッシンジャー補佐官は「総理は常にわれわれより一歩先を歩んでいらっしゃる」と切りかえした。 「在韓アメリカ軍に肩代わりさせて、日本の自衛隊を進駐させることは、我がアメリカの政策ではありません。台湾から米軍を撤退させても外国の部隊は送らない。この原則についすでにご説明しました。こうした原則は、韓国についても適用されると受け取っていただいていい。われわれは、日本が軍事的に膨張することには反対なのです」と断じている。
当時の日本が外交安全保障のすべてを委ねて体を預けていた同盟国アメリカ。その日米同盟の執行役である、国家安全保障担当の実力大統領補佐官が、かくもあからさまに台頭する日本に疑いの眼を向けていようとは、日本の指導部の誰ひとりとして想像していなかったのである。
ニクソンの機密テープ
ユダヤ人としてドイツに生まれたキッシンジャー氏の一族は、ナチス・ドイツの暴虐を辛くも逃れてアメリカに渡った一族だった。それだけに日独両国には険しい感情を捨て切れていないという。そうした反日に近い感情を抱いていたにしても、中国に対する一連の対日批判発言は、やはり特別な意図をこめてなされていたと見るべきだろう。周恩来に日米安保体制を容認させるために意図してそうして言動を繰り広げていたのではないだろうか。
こうしたキッシンジャー補佐官の本音に迫るための第一級の史料をいまわれわれには手にしている。「ニクソンの機密テープ」といわれるものがそれだ。
リチャード・ミルハウス・ニクソン大統領がホワイトハウスに在った期間を通じてひそかに収録していた機密のテープは二千時間に及んでいた。
この極秘テープの存在は、ニクソン大統領を任期途中で政権の座から放逐することになったウォーターゲート事件で、その存在が明るみに出たものだった。その後、このテープは数奇な運命をたどり、ニクソン・ファミリーの手を経て国立公文書館に管理が委ねられた。そして、歴史編纂官の検証を経て、秘密の解除が徐々に進められた。
そこには、深夜ホワイトハウスで、猜疑心にとりつかれ、部下との会話を記録したテープにじっと聞き入る孤独な大統領の姿があった。だが、皮肉にもニクソンその人が、集めた膨大な機密テープは米中両大国のひそやかな接近の瞬間を記録する第一級の歴史資料として、今私たちの手に残されたのだった。
このテープは、日中両国がひそやかな接触を始めた運命の一九七一年のホワイトハウスの奥深くの模様を記録している。
「中国もついに動き出したな。米中の対話は台湾問題だけに限定しなくてもいいと言っている」
こう語るニクソン大統領にキッシンンジャー補佐官も「先方の言い方は実にあいまいですが、大丈夫でしょう。今後の折衝ではっきりさせていきましょう」と応じている。ニクソン大統領が「アメリカ側が北京に出向いて台湾問題だけを話し合うなどできない相談だ」と自らに言い聞かせるようにつぶやくと「無論できません」と同意している。
「議題を限ろうとするなら対話など不可能だ」
「でも、大統領閣下。中国人とロシア人は違うのです。ロシア人はあなたが小銭を落とすと奪い取ろうと騒ぎ立てますが、中国人はもっと鷹揚に構えます。これまでのやり取りからみて、中国の首脳はロシア人のように空騒ぎしたりはしません。大統領閣下。これは初めて申し上げるのですが、米中接近が成れば、ベトナム戦争は今年中に終結できます。この点をめぐる周恩来の分析は実に洗練されています。状況を正しく読んでいるのは、周恩来唯一人といっても良いでしょう」
「我々の本音も見抜かれているようだな。我々が回答を伝えるまでほかのアメリカの政治家を中国に招待してはならないと念を押しておいてくれたまえ」
周恩来の招聘状
ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官。この二人が待ちに待った回答がホワイトハウスについに届けらる。一九七一年六月二日のことであった。それは周恩来自らが筆を取った書簡だった。
ニカラグア大統領との晩餐会を抜け出したニクソン大統領は「北京に大統領特使を極秘裏に受け入れる」という文面に何度も目を通した。二人はホワイトハウス二階のリンカーン・ルームでブランデーの封を切り、祝杯を挙げたのだった。
ニクソンは大統領特使として赴くキッシンジャーに交渉に臨む秘儀を授けている。
「いいかい。台湾については、どうしてもというときまで中国側の意向に沿ってはならない。台湾問題はきわめて重要だ。交渉の中身は一切公にせざるを得ない。だが、我々が北京まで出向いて台湾を売り渡したと受け取られては断じてならないのだ」
「しかし、大統領。中国側の気もひいておかねばなりません」
「私が君ならこういうだろう。自らを助くる者こそ、助くる。これがニクソン・ドクトリンだ。アメリカには台湾を切り捨てる用意があると受け取られないようにする。これは彼ら自身で決断すべき問題だといってやればいい」
キッシンジャー補佐官は、アジア歴訪の日程を巧みに組み、旅の途上で中国との仲介役を務めてきたパキスタンに立ち寄った。そこで急病のため静養すると装って突如姿を消した。一九七一年七月九日のことだった。
ここから中国側が用意した特別機でひそかに北京に飛んだのだった。周恩来総理との極秘会談に臨むためだった。随行したのは、中国専門家のウィンストン・ロード氏ら、わずかに三人。そこに国務省の関係者はいなかった。機密の保持に万全の体制が敷かれたのであった。
台湾をめぐる攻防
果たしてニクソン大統領は、長年の盟友だった台湾の蒋介石総統をどのように扱おうとしていたのだろうか。テープにはアメリカ議会で圧倒的な力をもつ台湾ロビーの力を恐れ、保守派の反発に気遣う大統領の本音が記録されている。
「『台湾についてもう1つ言えば、アメリカは台湾を支援せず、台湾から大陸から兵を送ることもしない』――。トルーマン大統領は1950年にこう言った。しかし、今回は、そこまで逆戻りする必要はない。私はあのトルーマンの発言には反対だ。このくだりは記録をとってはならない。すべてオフレコだ」
「外交文書はいずれ公表される決まりです」
「それなら尚のこと、削除してくれ。いいか。私の真意は台湾条項を慎重に書き込むことで、アメリカは台湾という友人を見捨てるつもりがないことを中国側に示しておかなければならないということだ」
会話のなかで台湾を守り抜きそぶりを見せたニクソン大統領。しかし、傍らで記録をとっていたスタッフに削除するよう敢えて命じている。この発言が外部に漏れると台湾防衛を堅く約束していると保守派に言質を与えてしまうことになると警戒したのだった。かつての反共の闘士という政治資産を巧みに使いながら、米中接近を図り、ニクソン外交のしたたかな手の内が垣間見られた瞬間だった。
両雄の初対決
初めての周恩来・キッシンジャー会談は、北京の迎賓館として名高い釣魚台で開かれた。ハーバードでの政治哲学の講義でも携えようとしなかった大学ノートに克明なメモを書き込み会談に臨んだのだった。中国側がそれに気づいて意外なという表情を見せたのだろう。キッシンジャーは「このようなものを準備したのは初めてなのだ」と自ら釈明している。冷戦期の世界のありようを変える―。それほどに重要なやり取りが交わされることになることを双方がわかっていたのだろう。
ニクソン政権が初めて相手にした周恩来は、クレムリンの指導者たちとはまったく異なる交渉者だった。原則は決して譲らない。しかし、小さな交渉の果実には手を出さない。周恩来は米中関係を改善したいなら、台湾周辺からすべてのアメリカ軍を撤退させよと主張し、交渉は台湾問題だけに限りたいと強硬な立場を譲ろうとしなかった。
交渉に臨んだ周恩来総理はまず、台湾問題を持ち出し、アメリカ側にひたひたと譲歩を迫ったのだった。これにキッシンジャー補佐官はノートを時折見ながら応酬している。
「中華人民共和国こそが、中国における唯一つの正当な政府であると認め、いかなる留保もつけてはならない。これは我々がアメリカ合衆国を認めるのとまったく同じ理屈です。我々は最後の州となったハワイにはアメリカの主権は及ばないなど考えたりはしません。台湾は中国の一省であり、すでに中国に復帰し、譲ることのできない領土の一部なのです」
これに対してキッシンジャー補佐官は早速こう応じたのだった。
「台湾の政治的な将来に関して我々は二つの中国、もしくは一つの中国と一つの台湾といった解決は支持しておりません。歴史家として言わせていただければ、総理がおっしゃっているような方向に事態は展開していくと予測します。しかし、もし私たちが米中の相互理解という確固たる礎の上に関係を築きたいのなら、まず、お互いを必要としていることを認め合わねばなりません」
周恩来総理の表情が心なしか動いたことを会議に同席していた随員たちの幾人かが気づいたという。 「キッシンジャー博士。あなたがいま、歴史の展開に従って二つの中国、ないし一つの中国と一つの台湾といった解決は支持しないとはっきりおっしゃったことは米中関係の改善、ひいては、われわれの国交の樹立に希望があることを示しています」
ニクソン政権は一つの中国と一つの台湾、そして台湾の独立に与しない。この発言に中国側は愁眉を開きます。周恩来はニクソン大統領の訪中を受け入れた瞬間だった。これを受けて、米中双方は、ニクソン訪中の具体的な発表方法を協議したのだった。
周恩来 最後の戦い
米中接近の知らせは、世界を駆け巡り、発表直前まで日本は通告を受けなかった。これを人々は「ニクソン・ショック」と呼んだ。しかし、言葉に言い尽くせぬほどの衝撃を受けたのは、クレムリンの指導者たちだった。ソビエトのブレジネフ書記長がニクソン大統領をモスクワに招きたいと通告し、暗礁に乗りあげていた米ソの軍縮交渉の再開に応じる意向を示したのは、そのわずか一ヶ月足らず後のことであった。
実は、筆者は、このキッシンジャー補佐官の電撃的な訪中の翌月、北京に滞在し、周恩来総理と長時間にわたって会見したことがあった。まだ二十歳。国際政治のなんたるかも知らない若者だった。しかし、それゆえだったからだろうか、中国の首脳たちが「帝国主義」として対決姿勢を露にしていた、当のアメリカ大統領の特使を、なぜいま、北京に招いたのか、というあまりに率直な質問を人民大会堂で、この現代史の巨人にぶつけたのだった。
これに対する周恩来総理の答えは「われわれの戦いには、武器を取ってするものとテーブルについてするものがある」というものだった。
自らも、やや苦しい釈明だと思ったのか、周恩来総理は「川に転げ落ちるのに、右からであろうが、左からであろうが、結局は同じことだ」と意外な言葉を口にした。
この言葉が、そのときまさに中国の首脳部の間で繰り広げられていた、極左グループと穏健派との闘争を映していたことはかろうじて理解でき。しかし、毛沢東の後継者に指名され、磐石な後継者と目されていた林彪副主席との対立が、すでに暴発寸前に差しかかっており、翌月におきたいわゆる林彪事件を予感させていたことなど知る由もなかったのであった。
この林彪を中心とする人民解放軍の一派が毛沢東体制にクーデターを試みて失敗し、当時鋭く対立していたソビエトに亡命しようと試みたことは象徴的だった。
当時のソビエトの指導部が中国への核攻撃を真剣に考えていた―そうした動きを肌で感じ取っていたのは当の中国指導部だったからだ。
そして、もうひとり。その優れた諜報能力から中ソの間に核戦争の影が忍び寄っていたことに気づいていたのはニクソン政権だった。
中ソ核戦争
中ソ関係は一九六〇年代に入ると急速に冷え込んでいった。互いを「社会主義の裏切り者」として、激しい非難の応酬が繰り広げられていった。やがて中ソの論争は、軍事衝突へとエスカレートしていった。長大な中ソの国境をはさんで双方の精鋭部隊がにらみ合い、やがて前線での小競り合いは、ついにウスリー川周辺での大がかりな戦闘へと発展していった。一九六九年のことだった。
アメリカの情報当局は、こうした中ソの衝突が、ソビエト側の補給地点に近く、中国側のそれからは隔ったっている事実に気づいて愕然とする。この事実はソビエト側が中国に攻撃を仕かようとしていることを示唆していたからだった。ソビエトの戦略的な攻勢を裏付けるように、ソビエトの四十を超える師団が中ソ国境に向けて集結を始めていたのである。
ソ連が中国に核兵器による攻撃に踏み切り、中国が決定的な打撃をこうむって独立を喪えば、東西の力のバランスは大きく崩れてしまう―。中ソ国境に迫り来る核戦争の影。このとき、人類はキューバ危機に続く二度目の核戦争の深淵を覗き見ていたのだった。
ニクソン政権は、その優れた現実感覚から、この事態を深く危惧して、対抗措置をとりはじめる。
クレムリンへの緊急警告
それまで長く国家機密として封印してきたアメリカの対抗措置の内幕をキッシンジャー氏が筆者に詳しく語ってくれたのは二〇〇五年の春のことだった。いまなお守秘義務をとかれていないためだろう。その物言いは慎重だったが、当時、中ソ国境を挟んで両国が核戦争の瀬戸際を歩んでいた事実ははっきりと認めたのだった。
そしてキッシンジャー氏は「ニクソン政権を通じて、もっとも重要な外交上の決定だった」と自ら言う「リチャードソン国務副長官の声明」を出して、対中核攻撃に傾くクレムリンを牽制した経緯を明かしてくれた。
「一九六九年の当時、アメリカ政府はさまざまな理由から、ソビエトが中国に対する核攻撃を検討している兆しがあると確信するにいたったのです。そこで『国務副長官による声明』を通じて、アメリカがソビエトによる対中核攻撃に懸念を抱いていることを示唆したのです」
このリチャードソン声明は「アメリカは中ソ間に存在している敵対関係を利用するつもりはない。しかし、中ソの対立が世界の平和と安全保障を損なうことを非常に懸念している」と述べてものだった。きわめて込み入ったものいいなのだが、ニクソン政権が言わんとしたのは、中ソ双方はアメリカが中立を維持するように努力すべきであり、もし一方が他方を攻撃するような事態となれば、アメリカは攻撃を受けた側に立つことを間接的に明らかにした重要なメッセージだった。
「米ソの関係をいままで以上に緊迫化させることのないよう釘をさしのです。さらに、アメリカが、中国へ接近することに興味を持っていることをさまざまな措置を通じて示した結果、ソビエトによる対中核攻撃という差し迫った危機はひとまず去ったのでした」
キッシンンジャ氏はこう述べてこの決断を誇らしげだった。
同時にニクソン政権はこうした中ソの険しい対立を利用して、なんとか、中国への接近を図ることができないかと考えたのだった。しかし、そのとき、日本を含めて世界の人々は米中両大国を接近に駆り立てたソビエトによる中国への核攻撃の危険には気づいていなかった。
一九七一年の春、ワシントンと北京の間でひそかに始まっていた予備折衝では、このソビエトの核の脅威が米中の接近を促していた様子を極秘テープから読み取ることができる。
「大統領、米中接近はソビエトとの外交ゲームに必要なんです」と語りかけるキッシンジャー補佐官に「そうだ、そのとおりだ」と応じるニクソン大統領。
「特使を受け入れるという中国側の申し出を受諾しない手はありません。大統領、この機会を逃せば、ソビエトに有利になり、アメリカは多くを失うでしょう。米ソ関係も損なってしまいます」
ニクソン大統領は、力強く頷いて、胡語っている。
「ソビエトの連中はアメリカに中国の横っ面をひっぱたかせたいのだろうが、そうはいかない。中国に熱を上げるわけじゃないが、中国が門戸を開くというのなら、アメリカも応じようじゃないか」
「もっとも、ツキがあればソビエトがこっちに食いついてくることになるかもしれません」
「まあ、そうだろうなあ」
キッシンジャー補佐官は、首を横に振ってさらに続けている。
「ツキというよりも必然的にそうならざるを得ないでしょう」
「なるほど、ソビエトの連中が合理的に動くなら、米ソ関係は今よりもずっとうまくいくことになるか。それとも、連中はどうしようもなく頭が固くて愚かなのか、どっちなのか」
あらゆる手立てを尽くしてソビエトの脅威をかきたてよ―。
ニクソン大統領は、北京に赴くキッシンジャー補佐官にソビエト軍の動向に関する極秘の軍事インテリジェンスを漏らしてでも、中国指導部の恐怖心を存分に揺さぶってやれとけしかけている様子が極秘のテープに記録されています。
「中国との交渉では先方にソビエトの脅威を強調してみせなければならない」
「大統領閣下、まさにそのとおりです」
「中国側に恐怖を抱かせるのだ。ソビエト軍はヨーロッパ側よりも中国との国境におびただしい部隊を配備し、集結させているという極秘のインテリジェンスをアメリカはつかんでいると言ってやれ」
上海コミュニケの攻防
一九七一年十月、キッシンジャー補佐官は、ニクソン大統領が中国を訪れる際、発表することになっているコミュニケの草案をめぐって詰めの交渉を行うために再び北京に赴きました。
ニクソン政権はこのとき、コミュニケの中で、「一つの中国」と表現することには、応じる意向を固めていた。しかし「一つの中国」の中身に踏み込んでみると米中双方の隔たりは大きく、交渉の前途には影が差していました。
キッシンジャー補佐官は、周恩来総理にこう持ちかけた。
「アメリカは、中国が台湾問題は内政問題だと考えていることを認め、その立場に異議を唱えません、しかし、中国は自らの立場で、そして自らの主権行使の範囲内で、台湾問題を平和的に解決したいと宣言してくださるのなら、我々の立場はもっと容易になりましょう」
これに対して周恩来総理は次のように応じている。
「イギリス政府はかつて私にこう言いました。我々は、台湾が中華人民共和国の一部分であるという中国政府の立場を事実として知り置いている―と。承認するのではなく、事実として知り置いている、というのです。二つの表現には国際法上なんらかの違いがあるのかもしれませんね」
ここで周恩来は中国政府の立場を「recognize」承認するのではなく、「acknowledge」、つまる事実として知りおくと表現してはどうかと持ちかけました。ニクソン政権が「事実として知り置くだけなら、承認するのとは異なり、国際約束としての義務は一切負わず、アメリカ国内の保守派の反発を招くこともないはずだというのです。
こうした妥協策を周恩来総理の側が意外にもそっと示すことで、米中の隔たりを埋めたのでした。難航していたコミュニケの草案造りはようやく動き出した、外交の瞬間だった。
「我々はすべての中国人が中国はただ一つであり、台湾は中国の一部であると考えていることにはいぎをとなえません。さらに、台湾の地位が未定であるとの主張もしません。この点をどう表現するのかが、難しいですが、コミュニケにはすべての中国人が中国は唯一つであると考えているという事実に留意するという表現を盛り込む用意があります」
台湾海峡の両岸に住む中国人はいずれも中国は一つと考えている。こうした表現は高尚に携わった中国代表団の一人にアイデアだったといわれる。
台湾は中国の一省だと主張する共産党政権。台湾の国民党政権も将来の大陸カンコウを前提に台湾は中国の一部だと主張していることに着目したのだった。
キッシンジャー補佐官、周恩来総理という名うてのネゴシエーターは、本来、交わるはずのない平行線を交わったとコミュニケで表現し、最大の難関を乗り切った外交の瞬間でした。
「こうした表現が明晰でないということは決して欠点ではありません。むしろ、その正反対です」
「あなたは外交辞令というものをめったに使わない方ですが、今のはその外交辞令なのですね」
「そのとおりです。なぜ、そう申し上げたのかという理由も総理にはおわかりでしょう。私は台湾について中国側の言葉の定義について反対したいのではありません」
日米の安全保障の盟約は、ふたつの危機のシナリオの上に成り立っている。朝鮮半島の有事と台湾海峡の有事がそれである。いま朝鮮半島で武力衝突が持ち上がっても、米中両国はかつての朝鮮戦争のように両雄が干戈を交えてあいまみえるようなことは決してしまい。だが台湾海峡では米中が直接軍事対決に至る危険を孕んでいることは一九九六年の台湾海峡危機で詳しく検証した。その後、中国の経済力が飛躍的に高まり、人民解放軍の近代化が進んだことで、アメリカ第七艦隊を中心とする抑止力が効きにくくなっていることは明らかだ。つまり台湾海峡の波は徐々に高くなっているといっていい。
ミリタリー・ニッポンの脅威
ベトナム戦争の泥沼から一日も早く抜け出したいアメリカ。ソビエトの脅威を何とかしのぎたい中国。こうした米中双方の接近を促したものは実は日本カードだったのです。
「一つお聞きしたいのですが、もし、あなた方の究極の目標が朝鮮半島からアメリカ軍を撤退させることにあるのだとすれば、その分を日本の自衛隊にかわりを務めさせることがありえますか」
「総理はすでに我々の先を行っていらっしゃる。その点についてはいくらでも申し上げることができます。我々はアメリカ軍が今果たしている役割を日本の自衛隊に肩代わりさせるつもりはありません。台湾に自衛隊を派遣することはないと昨日申し上げましたが、この原則は朝鮮半島にも当てはまります。アメリカは日本の軍拡には反対です」
「しかし、日本政府がこのまま資本主義的な競争政策をとりつづければ、いずれ混乱を引き起こすことは避けられません。経済成長とはたとえ自衛という名目であれ、軍事的な膨張をもたらすものであるからです」
「私は日本に幻想など抱きません。日本が自らの身を自らの手で守ろうと軍備を増強すれば、周辺の国々には危険は存在とうつるでしょう。だからこそ、日米関係こそが日本をおさえていくのです」
ニクソン政権は日本に駐留するアメリカ軍の存在こそ日本の軍事大国化を押さえ込む「ビンのふた」の役割を果たしているとして、中国側を説き伏せたのだった。
「日本に対する恐怖心を中国側に植えつけておかねばならない。私が君ならこういうだろう。アジアにも、ヨーロッパにも日本に対する懸念の声が広がっている。もし、アメリカがアジアから撤退するようなことがあれば、日本は必ずや再軍備に走る。日本はなりふり構わず軍備増強を急ぐだろう。だからこそ、アメリカ軍が日本に駐留し続けることが米中双方の利益にかなうのだ、と。中国が日本を恐れるのと同じようにアメリカも日本を恐れているといってやれ。ごく直接の表現で我々も日本がいかに危険と考えているかを明確にしてやろう」
従来はニクソン、キッシンジャーの二人が日本に対してきわめて厳しい感情を持っていたため、中国とのやりとりで日本への批判を繰り広げたといわれてきた。しかし、日本問題は中国に対して対日恐怖心をたくみにたきつける交渉のパートとなっていたことをニクソンテープは教えている。
この上海コミュニケに盛られた対談条項はガラス細工のようだと評されるなど戦後のアメリカ外交の中では洗練された戦略だった。アメリカの巨大な軍事力をテコにしながら、伝家の宝刀を抜くことなく、台湾に新たな戦争を引き起こさないという二重戦略だったからにほかならない。
何よりもその結果が物語っておりますように、この戦略は冷戦の時代から、ポスト冷戦の時代を貫いて台湾海峡での武力衝突を抑止してきた。しかしながら、台湾条項の核心をなします「一つの中国」というキーワードに託された現実は、時の流れとともに、今変わろうとしている。
台湾では選挙で民主的に選ばれた政権が出現し、自らの行く手は自らの手でという機運が高まっている。こうした新たな情勢を受けてアメリカの台湾問題への対応はそのあまりに洗練された戦略的な曖昧さのゆえに変質を余儀なくされている。
中国が台湾に力を行使したとき、アメリカははたして軍事介入の枠外に自らのみをおくことができるのか。ブッシュ政権の政策の幅は次第にせばまっててきている。
「中国の武力行使に対して、我々は明確には反対するが、どう反対するかはそのときの状況によるが、アメリカの立場に曖昧さなどない」
加えてアメリカの主要な同盟国日本も台湾有事にどう行動するか。その決断遺憾では日米同盟そのものを損ないかねない危うさを秘めている。過去三十年にわたって日本の安全保障をゆだねてきた東アジアの平和がどれほどもろい土台の上に立っているかを目の当たりにしてきた。
それゆえ、今後三十年のながきにわたって、台湾海峡を穏やかに保っていくためには、どれほど知恵の限りを尽くした外交が求められているか。
この膨大な機密テープは今、私たちに語りかけている。
以下予備項目
朝鮮半島危機は、リージョナルな紛争、これに対して、台湾海峡危機はグローバルな戦争の芽を孕んでいます。まさしく、この二つの危機は、月とスッポンほどの違いがあると申し上げて大げさではありません。
しかもその米中の超大国の中間に挟まっているのは、台湾という非常に厄介なプレーヤーです。台湾が全く独立の意図を持っていない状態を「水平」だとします。国家の完全独立を目指すのが「垂直」です。いまの台湾は、時間がたつにしたがって、ちょうど時計の針が逆回りに進んでいくように、実態的な独立に向けて動いているといっていい。、もし仮に台湾の現・陳水扁政権が明確な形で「独立の宣言」をしてしまえば、既に反国家分裂法という法律を持っている現在の中国の胡錦濤政権は、台湾に向けて何らかの実力行使に訴えざるをえないでしょう。
しかし、現実には、さしもの陳政権もそんなおろかな振る舞いには及びません。台湾が独立に向けて振れるにしても、その境目は実にあいまいです。その場合、これをもって容認できない一線を越えたと判定するのは、台湾でもアメリカでなく、中国の政治指導部なのです。ここが核心です。しかも、その中国の政治指導部とて明確な基準があるわけではない。彼らの判断は、その時々の国際情勢、国内の政治情勢によって左右されるのです。
農民反乱が各所で起こり、中国の現指導部についての批判が吹き荒れれば、台湾独立に厳しく対処することになるでしょう。中国の政治指導部内部で、主流、反主流の激烈な政争が起きれば、これまた台湾独立に厳正に対処せざるを得ない。言葉を換えて言いますと、台湾独立というファクターが、中国の政治指導部の意識という「鏡」にどのように映しだされるか、それがすべてを決めることになりましょう。
「いや、台湾だってそんなに愚かではない。あわてて独立を宣言したりはしない」という指摘が日本ではあります。が、ご注意いただきたい。いま私が申し上げているのは、中国指導部の意識という「意思決定の鏡」に、台湾独立がどのような像を切り結ぶのかが重要です。私は台湾の意志を論じているのではありません。
中国の政治指導部が、国内情勢とも絡めて、台湾が容認できない独立への一線を越えつつあると判断をしたケースでは「有事」に発展します。主導権は北京にあるのです。
いま福建省を中心に、台湾をターゲットにした中距離ミサイルの整備がどんどん進んでいます。そこで「台湾有事」となれば、陸・空軍並びに海上部隊に大規模な動員をかけ、臨戦態勢を下令するということになるでしょう。
当然、そういう局面に立ち至ったときには、アメリカ政府、とりわけ、いまのブッシュ政権は、果敢に動くことになります。アメリカの国内法ではありますが、台湾関係法もあり、台湾防衛に向けて実態的に動くのだろうと思います。こうなってしまえば、米中の直接軍事対決というシナリオが、いっそう現実味を帯びてきます。
こう申し上げましても、拝見をしましたところ7人ほどの方が、「いや、あの男はワシントンに居るジャーナリストだから、狼少年のようなことを言っているが、アメリカ政府はそんなに簡単には伝家の宝刀に手をかけない」と思っておられるように拝察しました。ところが残念ながら、この7人の方々は誤っています。
なぜならば、1996年の台湾海峡危機を思い出していただきたい。この1996年危機では、まだ中国とアメリカの軍事力の差が決定的だったにも過かわらず、危機は現実のものとなりました。このときは、安全保障の用語でいうディターレンス(deterrence)、つまり抑止が十分に効いていたため、有事にはいたりませんでした。当時の中国は、渡航能力もミサイル攻撃能力も、今から考えると比較にならないほど低いものでした。その中国が、台湾の国内の民主的な選挙に連動する形で、台湾島をかすめるようにミサイルの発射実験を行いました。このときは、アメリカは民主党のクリントン政権の時代でした。
クリントンさんという大統領は、いまのブッシュ大統領と違って、軍事活動より(モニカ・)ルインスキー活動にご熱心でした。できれば東アジアの安全保障などにはかかわりたくないというタイプの指導者でした。
にもかかわらず、クリントン大統領は、中国のミサイル発射実験という現実を前に、直ちに台湾海峡に1個機動部隊を差し向けたのです。さらにそれでは足りないと判断し、アメリカの意志の堅さを示すため、もう1個機動部隊を派遣する決定を下したのでした。つまり伝家の宝刀を抜く覚悟を北京に示したのです。
当時よりも、今のほうがはるかに情勢は緊迫しております。中国が何らかの形で台湾海峡をうかがう構えを見せれば、今のブッシュ共和党政権が動かないわけがありません。このように、米中の直接対決という、私どもにとっては悪夢に近い事態は、最悪のシナリオとして想定しておかなければなりません。
(2)米国の曖昧戦略とその歴史的起源
ここでやや専門的になりますが、台湾海峡をめぐる戦略情勢を正確に理解していただくために、アメリカの対中国戦略について説明させていただきます。ここにお集まりの方々ならば、この問題の機微をご理解いただけると思います。東アジア、とりあけ台湾海峡で、三十年の長きにわたって波穏やかに保ってきたアメリカの戦略の本質は、まさにここに隠れています。
「曖昧戦略」あるいは「ストラテジック・アンビギュイティー=strategic ambiguity)」、と呼ばれるものがそれです。これは重要な概念です。皆さんが関与しておられる東シナ海のガス田の問題を考えるときにも背景として抑えておくべき戦略です。
アメリカが長く培ってきたこの「曖昧戦略」とは何か。
その淵源は、1971年に極秘の交渉が始まり、72年の二月に発表された「上海コミュニケ」にあります。交渉のネゴシエーター(negotiator:交渉者)は、米中ともに現代史の最高のプレヤーです。中国側は、時の宰相、周恩来。一方のアメリカ側は、ニクソン大統領の懐刀、ホワイトハウスの国家安全保障担当特別補佐官、へンリー・キッシンジャー博士。この2人の間で火の出るような折衝が重ねられました。
このときの交渉の模様は、いまではアメリカ側の史料でつかむことができます。加えて、ホワイトハウス内部の極秘のやりとりまで知ることができるようになりました。じつに疑り深い、一種のパラノイアと言っても良いと思うのですが、ニクソン大統領という人の性格のおかげです。大統領は、盟友キッシンジャーとの会話録すら盗聴していたのです。これが後にウォーターゲート事件で発覚し、自らの墓穴を掘ることになります。しかし、ホワイトハウスの最深部の動きを追っている私たちのようなジャーナリストや歴史家にとっては、この上ない贈り物となりました。つい先頃、2000時間にわたって録音されたテープの機密がディクラシファイド(declassified)、つまり解除されたのです。「機密が解除される」と聞くと、全部の内容がつぶさにわかる、と思われます。しかし、実情は違います。機密解除とは、単に宝の山に入っていいという許可が下りるに過ぎません。2000時間に及ぶテープは聞きとりにくく、全てを自分で確かめなければなりません。特に米中関係のパートは、相当な基礎学力が必要です。東アジアの諸情勢や中国の内情に精通していなければ、意味がとれなせん。この2000時間テープの約10%、つまり200時間が、米中の極秘交渉に関するものでした。私どもは、辛抱に辛抱おかさねて、全てお聞きとりました。
NHKから独立させてもらう時期が迫っていましたが、この仕事だけはやり遂げておかなければと思いましたので、『外交の瞬間 ―71年、ニクソン機密テープが語る米中接近―』という映像ドキュメンタリー番組を作りあげました。本当は「NHKスペシャル」として放送すべき最高の素材だったのですが、私の持ち時間の関係で「BSドキュメンタリー」の番組枠で放送しました。番組では、この200時間に亘る極秘テープに依拠しながら、米中の秘密交渉の模様を忠実に再現していきました。そのエッセンスは、「上海コミュニケ」の骨格が練り上げられていくプロセスお活写しているところにあります。
実はこのとき、偶然にも少年だった私は、周恩来総理と非常に長い次官会見をしたことがありました。1971年の夏のことでした。当時、周恩来総理は「いま中国は、あらゆる外国の勢力と闘っている」と話していました。北の熊たるソ連社会帝国主義、日本軍国主義を復活させようという集団、イギリスの旧植民地主義、さらにはアメリカ帝国主義がそれだ―。そしてアメリカはベトナムから、イギリスは香港から、日本は福建省から、インドはパキスタン国境から、国民党は台湾から、そしてソ連は黒竜江を越えて中国を侵そうとするだろう。周恩来総理はこう述べて、「だが、中国人民はそれらの外国侵略勢力に寸土も与えないだろう」と言い切りました。当時二十歳をすぎたばかりの少年にとっては、その真意はつかみかねました。
後に私は外交ジャーナリストになり、秘密の交信録にも接し、様々な史料を読み解いていくうちに、1971年当時、周恩来総理の最大の関心事が何であったのか、つまり中国が真の脅威と感じていたのは何であったのかが、ようやく明らかになりました。
結論を記すと、それはソ連の脅威だったのです。現に、クレムリンは、中国に対して核兵器の使用をかなり真剣に検討していたのです。1969年のことです。中国の指導部はその事実を知っていたのでしょう。中国は北からの大きな脅威に直面していたのです。
この番組をつくるにあたって、私はニューヨークでキッシンジャー博士に久々に長いインタビューを試みました。彼は心臓病の病みあがりだったのですが、歴史的な証言として残しておきたいと考えたのでしょう。快く応じてくれました。このなかで、初めて「あいまい戦略」・アンビギュイティー・ストラテジーに真っ向から答えてくれました。
キッシンジャーは「初めてここまで公にするのだが」と断って、明かしてくれました。それは、実は人類が戦後直面した「もうひとつの核戦争の危機」でした。1回目の核危機はいうまでもなくキューバ危機です。もう1回の核危機が、1969年、ダマンスキー島(珍宝島)事件を頂点とする中ソ対立のときだったというのでした。
キッシンジャー博士によれば、このとき、アメリカ政府の、とりわけホワイトハウスに入ってきていたインテリジェンスは、ソ連が中国に対して核攻撃を仕掛ける危険が迫っていることを示唆していました。キッシンジャー博士は「アメリカ政府としては、恐らく私の在任中で最も重要な外交上の決断を下した」と語っています。キッシンジャー大統領特別補佐官が、ニクソン大統領の許可を得て「国務副長官」名で特別声明を発出したのでした。無論、実質的にはクレムリンに宛てたものでした。「副長官」というところがミソなのです。国務長官や大統領の声明では、政治的なリスクが大きすぎる。鋭く対立していたはずの中国側にスタンスを移したととられかねない。だが、低い政府レベルの声明では、ワシントンの真剣さが伝わらない。そこで「国務副長官声明」という形に落ち着いたのでしょう。「もしクレムリンが、東アジアの均衡を崩すような挙、つまり、中国への核攻撃に出た場合は、アメリカはこれを座視しない」という意図をこめたのでした。確かに、ニクソン政権の全期間を通して最も重要な声明でした。
ニクソン政権が、ソ連と中国の間に割って入って、核戦争の危険を未然に防止したのでした。バランス・オブ・パワーの体現者、キッシンジャーの真骨頂でした。「自分は今もこの決断を誇りにしている」と語っています。
当時、中国に対する北風の脅威とはかくも大きなものだったのですが、日本の人々は残念ながら、その事実を正確に知らなかったのです。インテリジェンスおそるべし―。世界の安全保障に直接かかわってこなかった国の限界なのでしょう。
そういう状況でしたから、中国はもしその可能性があるのなら、アメリカと関係をなんとしても改善したいと、そして北からの脅威を少しでも減じたいと考えたのです。
しかしながら、そのためには、どうしても抜いておかなければならない喉が、米中の間には深く突き刺さっていました。それが台湾問題だります。それは、死力を尽くし、脳髄を振り絞った「テーブルの上の戦い」だったといえましょう。
この「上海コミュニケ」の核心はたった一つ。「台湾条項」にあります。
「コミュニケ」というのは、ふつう「両国がこの点で一致した」という形式をとります。したがって、主語は両国となります。ところが、この「上海コミュニケ」は非常に特異な書き方になっています。両論併記なのです。つまり双方が「言い放し」になっています。私が取り上げている「上海コミュニケ」の台湾条項とは、もっぱら「アメリカ・パート」のことなのです。しかしいくらアメリカの言い放しといっても、公の声明のことですから、中国がそう書くことを一応認めたことを意味します。
「上海コミュニケ」のアメリカ・パート、そのポイントは、たった二つ。
第一は、「アメリカ政府は、台湾海峡の両岸の中国人が、それぞれ中国は一つだと言っていることを、事実として知り置いている」という部分です。「事実として知り置く」と日本語で表現しましたが、英語でacknowledge、アクノリッジです。
こういうケースでは、ふつうはrecognize、リコングナイズと表現します。リコグナイズは、アクノリッグに比べて、承認する、認める、という意味合いが強まります。したがって、台湾条項という微妙な問題が絡むここでは、アクノリッジ、つまり、事実として知りおいているという表現が使われています。
これは、皆さんが、ご自身の会社で難しい交渉をされるときの多少の参考になるかもしれません。ワシントンで日本企業が交渉するのを見ていると、時々恐ろしいことに英語で契約の本格交渉をしている日本人がいます。外交の世界では、英語を母国語とする相手と非母国語である交渉者が、英語で交渉をして合意文書をまとめるなどということはありません。アメリカ人と日本人が、フランス語で交渉するケースはありえます。英語でやってしまえば、相手側が圧倒的に有利になってしまうからです。
さて、本題に戻ります。「事実として知り置いている」という表現にしたのには、それなりのわけがあります。アメリカは「中国がいう一つの中国政策(one china policy=ワン・チャイナ・ポリシー)」をそのまま認めているわけではない、という意図をこめています。
日本の財界人も、中国では「一つの中国」政策を認めますね、と念を押されます。日本がコミットしている「一つの中国」と、アメリカのいう「ワン・チャイナ・ポリシー」とはその内容が大きく隔たっています。アメリカの「ひとつの中国」の淵源は「上海コミュニケ」です。「台湾海峡を挟む両岸の中国人」の片割れ、中国大陸側は、台湾は中国の密接不可分の1省だとしています。もう一方の当事者たる、当時の台湾の国民党政権、蒋介石が支配する台湾も、将来の大陸反攻を前提に、中国はひとつという立場をとってきました。台湾には各省の代表までいたわけですから。台湾側も「中国は一つだ」と言ってきたのです。
「上海コミュニケ」では、この点を捉えて、アメリカ政府は、台湾海峡を挟む両岸の中国人がそれぞれ中国は一つだと言っていることを、アクノリッジ、つまえい事実として知り置いてはいると表現したのでした。中国政府の「ひとつの中国政策」にそのままコミットしているわけではない、というニュアンスを巧みにこめています。「両岸の中国人の主張は一応承知しています」という立場です。
「両岸の中国人は」という表現は、周恩来とキッシンジャーが、文字通り脳髄を振り絞って考え出した妥協点なのです。この交渉は、実に陰影に富んだものでした。 本来ならアメリカ側が「事実として知り置いている」、「アクノリッジ」、という表現にしたいと主張し、これに対して、中国側が、いや「リコグナイズ」、「認める」という表現にしろと言って、激突するところであります。 ところが、実際は、周恩来が、そっと1枚のカードをキッシンジャーに差し出します。「ここはアクノリッジと言ってみてはどうだろうか」と言い出したのです。「昔、英国の外交官が、そういう用語法を用いていましたよ」と、敵に塩を送っているのです。周恩来、恐るべし、という感を深くします。
なぜなのでしょう。私の読みは明快です。当時の中国にとって、北からの脅威は、それほどに深刻だったのです。北からの烈風をしのぐためには、台湾問題という棘をなんとしても抜きたかったのでしょう。それゆえに、テーブルの下からそっと妥協のカードを相手に差し出したのでした。
台湾条項の核心の2点目は、「アメリカ政府は、台湾海峡問題の平和的な解決(peaceful -settlement)を希求する」とくだりです。この表現をとらえて、私は、「寅さん戦略」と呼んでいます。「ほんとのことを言っちゃあ、おしまいよ」という寅さんのせりふにひっかけて、「平和的な解決を希求する」と書いて、その行間まで明らかにしてしまっては「おしまいよ」というわけです。すべてはあいまいなままにしておく。それこそがもっとも有効な戦略なのだ、という考え方です。これが今日に至るまでで東アジアの平和を担保してきた「アンビギュイティー・ストラテジー」つまりあいまい戦略のターミノロジー(terminology:用語法)なのです。
「平和解決を希求する」とアメリカは言っている。言外には、もし平和解決の枠組みが崩れたというときには、アメリカ政府は伝家の宝刀を抜く覚悟があると示唆しています。現に96年には、伝家の宝刀に手をかけました。何故、キッシンジャーは、中国が台湾の武力解放に向けて軍を動かすときには、伝家の宝刀を抜くと明記しなかったのでしょう。そこが核心です。もし、ニクソン政権が明言してしまえば、台湾は独立に向けて歩を進めてしまうかもしれない。同盟国アメリカが武力で支援を約束してくれるなら、強硬策も可能になります。アメリカの明快なコミットメントは、台湾をして独立を宣言させる危険を高めてしまう。つまり、ニクソン・キッシンジャー・コンビは、台湾海峡の有事に際して、力の行使をするかどうか、あいまいなままにとどめながら、中国の台湾への武力行使を抑止しながら、返す刀で台湾の独立を牽制するという苦心の戦略を編み出したのでした。
私は、外交ジャーナリストですから、一般にアメリカの外交政策が、イギリスと比べて、いかにも荒っぽいことを事実として知っています。それだけに、この「あいまい戦略」は、未だかつてないほど繊細にして、ガラス細工のようなみごとな外交戦略だと思います。そのアーキテクト、設計者、ヘンリー・キッシンジャー博士は、やはり天才的な切れ味を持った人でした。これがいかに優れた戦略であったのかは、この「あいまい戦略」が、その後、三十年にわたって、民主・共和の両政権によって継承され、東アジアの平和を保ってきた事実がこれを物語っています。
ただ、過去30年間にわたって台湾海峡は波静かだったのですが、今後30年間、波静かであり続けるかどうかということについては、大きな疑問が残ります。言うまでもなく、台湾ではその当時と違った新しい政党(民進党)や政権(李登輝政権、陳水扁政権)が出現し、台湾自身の民主化が進んで、新しい主張(二国論、一辺一国論)が出現しているからです。「ひとつの中国」がしだいにリアリティを減じているからです。情勢はいま大きく変わろうととしています。
一方、1996年の台湾海峡危機以降の10年間で、中国がいかに経済力をつけ、人民解放軍のミサイル部隊や海軍の軍備が増強されたかは、皆さんよくご存知のところです。このところ、米中の軍事力の差は、台湾海峡に限ってはずっと接近をしてきています。一部の専門家の間では、これが台湾海峡に限っては逆転しつつあるとまで言う人までいます。「96年の屈辱」が中国を決定的な軍備拡大に走らせたという指摘もあります。この構図は、キューバ危機後のソ連の軍拡を想起させます。アメリカの中国に対する抑止力が、十年前に比べて、機能しにくくなってきていることは認めなければなりません。アジア大乱の兆しに備えておくべきでしょう。
キ「日本が攻撃されたときに、われわれが日本を防衛したいと思えば、防衛することができます。核の時代においては、国家がほかの国を防衛するのは条約があるからではありません。自国の利益が危機にさらされるからなのです。ですからアメリカに条約は必要ないのです。日本は軍事的には、アメリカのために大きなことはできません」
ニクソン政権が初めて相手にした周恩来は、クレムリンの指導者たちとはまったく異なる交渉者でした。原則は決して譲らない。しかし、小さな交渉の果実には手を出さない。周恩来は米中関係を改善したいなら、台湾周辺からすべてのアメリカ軍を撤退させよと主張し、交渉は台湾問題だけに限りたいと強硬な立場を譲りませんでした。
この年の七月に世界を驚かせた極秘訪中をやり遂げ、帰国後、翌一九七二年にニクソン大統領が初めて中国を訪れることが公表された。ニクソン大統領が中国を訪れた際に発表される「米中共同声明」の骨格を固めるために、二度目に北京を訪れた際に交わされた
地元カリフォルニアに滞在中のニクソンにはまず暗号電報で、続いてキッシンジャーその人から朗報が伝えられました。
「世界の永続的な平和に向けて重大な進展があったことを、このテレビ演説でお知らせします。これから読み上げる声明は北京とアメリカで同時に発表するものです。周恩来総理とキッシンジャー補佐官は七月九日から十一日にかけ、北京において会談いたしました。ニクソン大統領が中華人民共和国を訪れたい希望を表明したことを知り、周恩来総理は、中国政府を代表してニクソン大統領が一九七二年五月までの適当な時期に中国を訪れるよう招待しました。私、ニクソンはこの招請を快く受け入れました」
後に中国大使を務めるウィンストン・ロード氏は述べている。
「もし訪中が事前に公表されていたら、同盟国や関係国がこぞって微妙な問題にロビイ攻勢をかけ、大統領やキッシンジャー氏の手を縛ってしまうと考えました。ありとあらゆる制約を受け、中国と柔軟な交渉をすることなどできなくなっていたことでしょう」
その模様をロード氏は克明なメモに残していた。国立公文書館に残されていた文書から両雄のやり取りを検証してみよう。