「自叙伝の本棚にて」
黴の臭いが薄暗い店内に漂っている。古びた皮表紙の書物が並ぶ棚を通り過ぎると、自伝をずらりと取り揃えた書棚に行き着く。自らの生涯をことさら華麗に彩った書、淡々と綴った書、忘れ去られまいと抗う書。そんな自叙伝の群に『イーデン回顧録』はひっそりと挟まれていた。客の視線がないのを見届けて、そっと取り出してみる。栞に見せかけて一枚の紙片が差し込まれていた。会合の場所と日時が短く記されてあった。その頁を開いてみると「スエズ動乱」と題された章の「1956年10月23日―31日」の節だった。アンソニー・イーデン卿が、大英帝国を大国の座から逐うことになった危機の日々を自ら綴った箇所だ。
ワシントン中心街のデュポン・サークルの一隅にひっそりと建つ「セコンド・ブック・ストアー」での出来事だった。ゲイ・コミュニティとしても知られるこの界隈は、様々な人々が出入りし人目につかない。大切なニュース・ソースと接触するには格好の穴場だった。インテリジェンス・コミュニティの人たちはメールの機密保持など頭から信じない。だから機密を要する会合は、こんな古典的な方法で場所と時間が決められる。情報源が望むなら、スパイと見紛うような方法でも構わない。それが僕たちジャーナリストの作法だった。
対イラク攻撃の前夜、こうした接触が幾度も繰り返された。だが、外部の視線にそんな場面を曝せば、情報のプロフェッショナルたちには会話の中身を推し量られてしまう。だが、それほどに濃密なインテリジェンスがやり取りされたのだった。イラク戦局に占める日本はかくまで重みを持っていたのである。
こうして付き合ったこの人も、まもなく任期を終えてワシントンを去っていった。二年ほど前、ロンドンで彼に再会する機会があった。こんどは仕事の話はしないというのが暗黙の約束だった。にもかかわらず彼が指定してきたのはやはり古書店だった。彼らしい茶目っ気なのだろう。
「君の定宿のデュークス・ホテルからもピカデリー・サーカスを渡れば数分だろう。カーゾン・ストリート10番地の『ヘイウッド・ヒル』でどうだろう」。
「魚介料理の『ミラベル』のある通りだね。その上にある親友のアパートメントに逗留したことがある。よく知っているよ。例によって自伝の書棚で待っていることにする」
「ああ、たまにはイーデン卿のご機嫌も伺わなければね。ご老体は忘れられるのが何より嫌いだからな」
やはりそうだったのか。スエズ動乱に遭遇した英国を率いた悲運の宰相に深い思いを寄せていたのだろう。
彼が指名した書店「ヘイウッド・ヒル」はジョン・ル・カレの名作『ティンカー、テーラー、ソルジャー、スパイ』にも登場する。英国秘密情報部が生んだ二重スパイ、キム・フィルビーのモスクワ亡命事件に触発されて書かれたスパイ小説である。伝説のスパイ・マスター、ジョージ・スマイリーは、金策のために宝物の書物を手放すためこの書店を訪れる途中で理髪店「トランパーズ」から出てきた情報部の同僚に出っくわす場面が描かれている。
この「トランパーズ」にはイーデン卿も時折姿を見せたという。老大国の威信を一身に背負った彼は、エジプトのナセルがスエズ運河の国有化を宣言するや、フランスを誘って武力介入に突き進んでいった。だが西側同盟の盟主アイゼンハワーは、英仏の軍事行動を手厳しく批判し、大西洋同盟には深い亀裂が走ってしまった。
この危機をくぐりぬけたイギリスは、アメリカの対外政策にことごとく付き従うようになる。その一方で超大国アメリカの意思決定に何とか影響力を及ぼそうと英国外交のあらゆる知恵を注ぐようになっていく。「影響力の大国」となるべく舵を切ったのだった。
ブッシュ政権が、イラクへの力の行使に踏み切れば、イギリスも日本もそれを支持する他にどんな選択肢が残されているというのか。だがアメリカの決定に唯々諾々と従っていると自国民の眼に映れば、対米同盟は軋みを増してしまう。日本もまた「影響力の大国」を目指すべきなのではないか―。この友人は、一枚の紙片にこんな思いを滲ませて『イーデン回顧録』を選んだのだろう。だが眼前のひとは、ただ黙ってシングル・モルトのグラスを傾けるばかりだった。