手嶋龍一

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「非核国代表し世界に影響を]

東京新聞インタビュー

戦後半世紀以上にわたり、集団的自衛権や武力行使についての国会論戦がいかにリアリティー(現実)から切り離されてきたか。僕は、そのことに大きな問題があると言い続けてきた。

集団的自衛権は非常に大層なことと考えられがちだが、そうではない。例えば友人と二人で夜道を歩いていて、友人が暴漢に襲われる。何もしなくても法的な責任は問われないが、友人を救うために暴漢と戦う権利はある。そういう話だ。

戦後、日本の保守政権は国会で予算を通すため、社会政策や所得政策だけでなく、安全保障の分野でも野党の主張を少しずつ採り入れてきた。その象徴が「権利はあるが行使はできない」という、内閣法制局による集団的自衛権の憲法解釈だ。

北朝鮮の核問題で、国連決議に基づいて米軍などの僚船が日本の海上自衛隊と一緒に船舶検査をする時、僚船が襲われても「何もしない」と言えるのか。そこに限って武器の使用ができるよう、あまりに厳格な政府の見解を見直すべきだろう。

一方で、「日米同盟を強化するために、集団的自衛権の行使を認めるべきだ」という議論もあるが、僕は憲法を改正して行使を全面的に認めても、同盟の強化につながるとは言い切れないと思っている。

戦後の米国は民主、共和両党とも一貫して「東アジアで日本に再び覇権を唱えさせない」という大きな戦略を持っている。日本の核武装論議が、米国側の網膜に「日本が憲法改正を機に自主武装を行い、その果てに核武装をするのでは」と映り始めているとも限らない。

核武装の議論は封印しない方がいい。でも、もし論じるなら日米同盟と相いれない側面があることも含め、きちっと論じた方がいい。その点で言えば、憲法改正には大きな政治的コストがかかり、リスクを伴う。

日本は核を持とうと思えばいつでも持てるのに、ヒロシマやナガサキ、ビキニ(第五福竜丸の被爆事件)の経験から意図して持たないと宣言している。この高い道義性によって、国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指す。そんな形で世界に影響力を発揮してほしいと思う。

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