「アメリカVS中国 諜報戦争の恐るべき現実」
「アメリカ財務省のタスク・フォースは、まずマカオから戦いの狼煙をあげようとしている。北朝鮮の資金洗浄に関わっている現地の銀行を血祭りにあげることで、100ドル札の偽造をめぐる対北包囲網を敷くことになるだろう」
ディープ・スロートからこんな E メールが私のもとに届いたのは、 2005 年の夏が終わろうとする頃だった。セント・マイケルズという大西洋岸の町で『ウルトラ・ダラー』を書きあげ、筆を置いたまさにその時だった。
世界で最小、だが最強の捜査機関とされるアメリカのシークレット . サービス。同時多発テロ事件をきっかけに国土安全保障省の傘下に入ったのだが、実質的にはいまもアメリカ財務省の統制下にある。財務省のタスク . フォースは 5 年の歳月を費やして研ぎ澄ましてきた牙を北の独裁国家に剥こうとしていたのである。そこには基軸通貨たるドルの威信を脅かそうとする「通貨のテロル」を決して許さないという決意が漲っていた。
ディープ・スロートが予告した通り、鋭利な斧はマカオの黒い銀行の頭上に振りおろされた。最初の一撃は情報のリークだった。 2005 年 9 月 8 日付の香港の有力紙『エイシアン・ウォール・ストリート』にスクーブ記事が掲載された。
「マカオの複数の銀行が不法な資金の洗浄に手を染めている。アメリカ財務省は、バンコ・デルタ・アジア(匯業銀行 ) が北朝鮮絡みのマネーロンダリングに関与しているとしてすでに捜査に着手している」
この記事を裏書きするように、アメリカ財務省は疾風のように動き出した。北朝鮮の資金洗浄に関わっていると断定して、マカオのバンコ・デルタ・アジアを疑惑の金融機関に指定。アメリカの金融機関には取引を停止するように求めたのだった。それは金融機関にとっては死刑宣告にも等しい措置だった。これを受けてマカオの金融当局は監視委員会を設け、バンコ・デルタ・アジアを厳重な管理下に置いた。 2005 年 9 月下旬のことだった。
北朝鮮当局は、こうしたアメリカの金融制裁につよく反発し、制裁を解除しなければ六者協議の再開には応じられないと強硬な姿勢を見せている。ドル紙幣の偽造と資金洗浄はいまや六者協議の行方を左右する重大事として浮上したのである。
偽札世界のイザヤ書
こうしてみるとアメリカと北朝鮮の熱戦が、マカオを舞台に突如火を噴いたかのようにみえる。だが、アメリカ財務省のタスク・フォースは、 90 年代の半ばから旧ポルトガル領のカジノ都市を密かな監視対象に置いていたのである。それは 10 年越しの永き戦いだった。
『ウルトラ・ダラー』のなかでも、 BBC の東京特派員が外務省のアジア大洋州局長に北の資金の流れを質す場面が登場する。
「北朝鮮の送金ルートの中心はどこだと思いますか」
「そりゃ、一にマカオ、二に瀋陽でしょう」
「北朝鮮の当局が直接、送金に携わっているのでしょうか」
「送金方法はいろいろあると思うな。一番多いのは、ダミーの商社が商品の決済を装って代行するケースでしょう」
「ダミーの商社」とは、マカオの「朝光貿易公司」を指している。この「朝光貿易公司」は、ピョンヤンが大量に吐き出す偽 100 ドル札をマカオの銀行やカジノで洗浄する役割を担ってきた。北製の偽 100 ドル札を東アジアの各都市に流通させるためのハブの役割を果たしてきたのである。だが、作中でふたりが交わすやりとりの核心は、疑惑の都市にマカオと並んで中国の瀋陽が挙げられていることだ。
アメリカ財務省のタスク・フォースがマカオを落としたところで、中国の国家主権に守られた藩陽での資金洗浄が放置されていれば北からの黒い資金の流れを止めることはできたい。いまや米中の熾烈な鞘当てがこの分野でも繰り広げられているのである。
さらに付け加えるなら、摘発されたバンコ・デルタ・アジアなどは脇役にすぎない。疑惑の主役は、マカオのカジノ王、スタンレー・ホー氏が支配する誠興銀行であり、陸続きの珠海に逃げ込んだ陰の北朝鮮総領事館「朝光貿易公司」である。金正日総書記が訪中するたびに珠海と瀋陽を訪ねているのは決して偶然ではない。
このように『ウルトラ・ダラー』では、水面下で静かに繰り広げられていたアメリカ、北朝鮮、中国、日本の駆け引きを、情報のプロたちが「インテリジェンス」と呼ぶものに深く依拠して描いている。だが、物語では強制捜査によってえぐり出された事件をなぞって写し取っているわけではない。捜査のメスが入った時には、物語の筆をすでに置いていた経緯はすでに述べたとおりだ。ましてや実在の人物を安易なモデルに仕立てているわけではない。
事実関係を検証してもらうためにゲラを読んでくれた金融関係者は「日々のニュースがこの小説を追いかけている。その意味ではこれは偽札世界のイザヤ書だ」と評していた。『ウルトラ・ダラー』が次々に起きてくる事件を預言していたというのである。
偽ドル札のクーリエ
ノンフィクションであれ、フィクションであれ、捜査当局が実際に動き出す前に、事件の核心に切り込むにはかなりのリスクを伴う。ホリエモン事件を想起してもらえばいい。東京地検が摘発に乗り出す前に、ライブドアのいかがわしさを書こうとすれば周到な調査取材と訴訟を受けてたつ覚悟がいったはずだ。現にそうしたリスクをとって報道したメディアはなかった。だが『ウルトラ・ダラー』は、アメリカの捜査機関の動きに先駆けて筆を進めている。
具体例をもうひとつだけ挙げておこう。『ウルトラ・ダラ』第一章の「事件の点景」に IRA 武闘派の陰の領袖が登場する。モスクワとダブリンを密かに行き来して、偽 100 ドル札を運ぶクーリエだ。この男の実名は、ショーン・ガーランド。執筆時には容疑者ですらない。このため、人権上の配慮からケビン・ファラガーとした。ガーランド容疑者は、アメリカのシークレット・サービスの要請を受けた現地の公安当局の手で北アイルランドのベルファースト市内のホテルで逮捕された。 2005 年 10 月 5 日のことだ。
ガーランドはその後病気だと言い立てて保釈金を積んで保釈されたのだが、国境を越えてアイルランド共和国に逃げ込んでしまった。アメリカとの間に犯罪人引渡し条約がないアイルランドを隠れ蓑にしたまま立て籠もっている。
リターン・マッチ
『ウルトラ・ダラー」を執筆しなければと思い始めたのは、いまから 9 年ほど前のことだった。その時、筆者はジョン・ル・カレが「ドイツの小さな町」と呼んだボンで NHK の支局長をしていた。ペヒという森のなかの自宅に幾重にも梱包された封筒が届けられた。後に『宿命「よど号」亡命者たちの秘密工作』として新潮社から出版された原稿のゲラであった。著者は高沢皓司さん。彼はピョンヤンと日本の支援組織を結ぶインサイダーのひとりだったのだろう。
そこには「よど号」のハイジャック犯たちが辿った数奇な運命が赤裸々に記されていた。それは日本の公安警察を震憾させるに十分なものだった。そのゲラは捜査の標的にもなっていた。それだけに出版杜側も機密の保持にはことのほか神経を使っていた。こうしたなかで、書評誌『波』に原稿を依頼されたのだった。
私はゲラを一読して深甚な衝撃を受けた。北朝鮮の諜報・工作組織は「よど号」のハイジャック犯たちに日本女性との結婚を秘密裡にすすめ、夫妻となった彼らに偽装パスポートを与えてヨーロッパに派遣した。こうして日本人旅行者に対する新たな拉致事件が企てられたのだった。ザグレブ、コペンハーゲン、ウィーンそしてマドリッドが拉致の舞台となった。日本の警察当局もまったく知らない驚愕の事件であった。
『宿命』の最初の読者のひとりである私は、ジャーナリストとしての至らなさに深く恥じ入らなければならなかった。事件の存在を予感させる素材は私の周囲に数多く転がっていたからだった。横須賀の情報拠点だったスナック「夢見波」、米海軍情報部の不審船絡みのインテリジェンス、コペンハーゲンから消えた日本人旅行者。わが思考に力づよい跳躍力さえあれば、いくつかの断片をつなぎ合わせて事件の全体像を描き出すことができたものを―――。いつの日か、リターン・マッチをと、自らに誓わなければならなかった。
東京の下町から突如姿を消した若い印刷工―――。ニュー・イングランドの名門製紙会社から運び出された紙幣の原料―――。マカオ港で足取りか消えた紙幣印刷用の精巧な凹版印刷機械―――。ジグソー・パズルのピースをひとつひとつ嵌めこんでみれば、くっきりとした事件の輪郭が浮かびあがってくる。
しかしながら日本の公安当局は、こんども動こうとはしなかった。ひとたび国境を越えてしまった事件には容易に捜査の手を伸ばすことができずにいたのである。海外の情報機関と緊密に連携をとりながら、機密情報に迫っていく情報センスを著しく欠いていた。
そして、なにより戦後のニッポンは、事件の点景から全体像を紡ぎだす構想力をすっかり摩滅させ、日常的な思考の引力から脱する筋力を萎えさせてしまっていたのである。
インテリジェンスの業
『石光真清の手記』がいま私の手元にある。沖縄返還に際して当時の佐藤栄作首相の密使をつとめた若泉敬から贈られた愛蔵版だ。若泉はキッシンジャー補佐官との間で、有事に核兵器を沖縄に持ち込む密約をまとめあげ、その後、郷里の鯖江に隠棲して世に出ようとはしなかった。そして日米首脳が密かに結んだ協約の全貌を明らかにした『他策ナカリシヲ信ゼント欲ス』の英語版が完成したのを見届けて逝った。明治という若い国家を守り抜くために、僧侶や写真館主になりすまして対露情報を集め続けた石光真清に自らの営為を重ね合わせていたのだろう。若泉が愛蔵版に引いた傍線に「露探」石光真清へ寄せる共感が滲んでいる。
将棋の坂田三吉は「ああ、銀が泣いている」と嘆息したというが、若泉も「ああ、インテリジェンスが泣いている」と嘆いているようにみえる。だが、インテリジェンスというものにはひときわ深い業が宿っているのだろう。あの沖縄返還交渉の当時、ニクソン・キッシンジャー組の手の内を探るインテリジェンスを佐藤・若泉組がいささかでも手にしていたら―――。あの密約に誘いこまれずに済んだのかもしれない。晩年の若泉はそう考えていたようにも思えてくる。国家の針路を誤らないためにインテリジェンスの存在がいかに重要かを知り、それを存分に使いこなすことができる政治指導者などほんの . 握りなのであろう。
児玉源太郎の遺伝子
イラク戦争当時、アメリカ中央情報局に在って中東情勢分析の情報官をつとめたポール・ピラー氏は、外交問題評議会が発行するフォーリン・アフェアーズ』誌にこのほど論文を発表した。この中で「情報機関がイラクの大量破壊兵器について情報を誤ったのではない。あらかじめ決めてあった結論に都合のいいデータだけを拾い出し、インテリジェンスを政治的な目的に利用したにすぎない」と、ブッシュ政権の最高首脳部を告発した。確かにその通りだったのだろう。
だが、ワシントンという政治の魔都に身を置く者にとっては、アメリカの情報関係者だけにくみする訳にはいかない。「あなた方、情報に携わる者は、権力者がインテリジェンスを恣意的に使うことなど百も承知のはずではなかったのか。情報機関の側が権力者に追従などしなかったと言い切れるのか」と言いたい。
いつの時代にあってもインテリジェンスの扱いほど難しいものはない。『ウルトラ・ダラー』も、英国秘密情報部に属するオックスフォードの教授にこう言わせている。
「先の戦争こそ、我が情報部が栄光の頂に立った一瞬だった。だが、君らに言い伝えるべき戦訓など数えるほどしかない。情報活動とは、錯誤の葬列なのだ、スティーブン。でも、誰かが担わなければならない責務なんだ」
日本という国が情報の分野で「栄光の頂に立った一瞬」は目露戦争の前夜だった。そしてその中心に児玉源太郎がいた。この小柄な将軍の体内に流れていたジーン ( 遺伝子 ) はわずかなりともいま私たちの血にも受け継がれているはずだ。『ウルトラ・ダラー』の上梓がひとつのきっかけとなって、この国にインテリジェンスとは何かを考える気運が芽生えてくれればと思う。その意味でこの『ウルトラ・ダラー』が「インテリジェンス小説」として読まれることを著者として願っている。
月刊『現代』2006年4月号掲載